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2012年1月22日 - 2012年1月28日の2件の記事

2012年1月28日 (土)

繰り言

なかなか寝付けないので起き出して、テレビを付けたら「朝生」をやっていた。今日のテーマは「激論!橋下徹」。本人が出てきて、彼に批判的な人と議論(?)している。この番組、嫌いなのだけど見てしまう。1人でだらだらと飲む際のアテには調度いいということか。ほうれん草をちゃちゃっと炒めて、日本酒をちびちびやりながら見てしまった。

橋下氏が本気なのは間違いない。本気で政治をやろうとしている。彼に批判的な面々よりも、橋下氏の言うことの方が理屈が通ってもいる。

個人的に、最近まで、今回の市長当選の理由は、彼の圧倒的な知名度と「好青年」然としたキャラクターにあるんじゃないかと疑っていた。実際にそうした側面もかなりあったのではないかという疑念は、今もあるのだけど、良いか悪いか、好きか嫌いかは別として、彼が本気なのと、マクロな視点とミクロな視点を合わせきちんと目配りをした上で、「変革」を目指していることは認めざるを得ないのではないかという気がしてきている。

だから、今日の「朝生」で、パネラーの細かな批判にはもっともな点も多いのだけど、それが彼にぎゃふんと言わせるようなクリティカルヒットにはなっていないのも、もっともだと思った(東浩紀氏にもうちょっとしゃべらせたらいいのに)。

その上で、「変革」がアプリオリな命題になっていること、「変革=善」であるかのように見なされていること(これはどうも、橋下氏に批判的なパネラーにも共通していそうなのだ)について、違和感が残るのだ。

共産党議員の山下芳生氏が出ているけれど、そうだよなぁ、そもそも共産党は革新であって、現状改革を目指すのがレーゾンデートルだもんなぁと思ったりする。弱者のための政治を掲げる最近の共産党には、賛同するところも多いのだけど、「変革」という点において行き詰まって(どっちつかずになって)しまっているのが見えてしまう。50年以上前に武闘路線を蜂起した共産党にとって、システムの抜本的変革は、ずっと遠くにある目的の1つではあるのだろうけど、結局そこに通じる道は見えないままだ。だから橋下氏から、共産党の提言が「枝葉末節」といわれてしまう。

「システムを変えなければ政治改革は望めない」のはその通りで、そのためには決定できる責任の所在をはっきりさせなくてはならない。「変革」を善しとする限りにおいて、橋下氏の主張に、反対者は太刀打ちできない。

実際問題として、日本は行き詰まっている。既存の体制の矛盾点は随所に表れていて、生きにくさ、暮らしにくさ、将来への不安を感じている日本人は過半を占めるかもしれない。ただ、ここで問題は、私たちそれぞれが感じる矛盾点を具体化したときに、その一致点が必ずしも見いだせないのではないかということだ。

政治、経済、司法、教育、医療、環境などなど、大きなカテゴリーで論じれば、大きな問題をかかえていない分野が見当たらないという状況ではあろう。しかし、個々人が何に切実な問題を感じているかを具体的に検討すれば、千差万別であるはずだと思う。個々の問題に即して「変革」を考えると、しばしば「あちらを立てれば、こちらが立たず」といった状況が出来する。

他分野の改革を断行したために、こちらの分野では問題が深刻化するということが、しばしばある(社会人なら、思い当たる節の1つや2つはあるだろう)。中には、抜本的な変革は好ましくない分野というのもあって、それは、より実生活に根ざした方面に多いように思う。医療、教育などの慣性力の強い分野も、そうした傾向が強いはずだ。コロコロ変わっちゃいけない制度というのも確かにあると思うのである。しかし、私も末席を汚している教育分野などは「改革のための改革」で、かなり痛手を受けている。属人的な、ダメな教員とか藪医者とかをなんとかしようという話ではなくて、改悪に近いことが日常的に行われており、まともに教育をしている人にも負の影響を与えているのは間違いない。

ただし、政治の分野(こちらは、やはり大きな変革が必要だ)を変えるに当たっては、さしあたって、あらゆる末端組織の利益を忖度する必要があるわけで、労組や教組の利益を代表する政党は、組合の意向を無視するわけにはいかない。結局、様々な問題が政治の分野に集約され、様々な形の「政治改革」が出てはポシャるといった具合になるわけだ。

政治が国民生活のあらゆる分野に影響するのは間違いないが、だからといって、政治の水準では語れない問題というのもある。だから、日本の政治に(国政も地方自治体も)変革が必要だからといって、それが日本社会のあらゆる分野で抜本的な変革が必要だということにはならない。しかし、政治家がシステムの変革を目指すとすれば、末端分野までを含めた改革に手を付けざるを得ない。橋下氏が、教育についてかなり踏み込んだ政策を出し、それが物議を醸していることの背景には、たぶんそういう事情がある。

多くの政治家が回避してきたことだが、政治分野においてシステム自体を変革する必要があるのは事実だと思う。その点で、橋下氏がやろうとしている方向性は筋が通ってはいる。また、首長が私利私欲を離れた決定権を持つこと(=広義の「独裁」)も、条件次第では一定程度許容する必要があるかもしれない。橋下氏が「独裁」という言葉で表現する内容は、今のところ間接民主制において当選者には民意の代表として決定権が付与されるはずだということにすぎない(彼の右翼的言動や思想信条が疑心暗鬼を招いている節はあるが)。

その上で、彼が変えていい(変えるべきな)のは政治システムの領域に限定されることを忘れてはならない。たとえ、現今の教育制度が政治改革の足を引っ張るとしても、彼が市長として強権を発動し、教育改革を強制することは好ましくない。日教組的な抵抗だけでなく、良心的で有能な教職員の抵抗もあるということを無視すべきではなかろう。

ようするに、優先順位と問題の階層(分野レベル)を意識しないと、いかんのとちゃう? ってことなんだけど、だめだ。「ちびちび」といいつつ結構飲んじゃったらしく、何を書いているのかわからなくなってきた。後で付け加える(もしくは訂正すべき)点があれば、日を改めて書きます(書かないかもしれませんが)。酔っ払いの繰り言(実際そうなんだが)めいた話で申し訳ない。

 

 

【2/1追記】

↓これにつきるなぁ。

東浩紀氏のツイート: ぼくが言ってるのは、要は、政治に口出すなら政治のルールで勝つしかないのであって、政治に口出しておいて負けたら「あれはルールが悪い」と言うのはあまりに格好悪いからやめろ、ってことですよ。これはもう政策内容以前の話です。hazuma2012/01/15 21:55:52

↓これももっともだ(やまもといちろうBLOG「いま、香山リカ女史の無能さがヤバイ」)。
 
 
結局、学者や評論家が感情論でああだこうだ言うのが、全くと言っていいほど状況に直接的影響を与えていないことを反省すべきなんだ。橋下氏と香山氏を含む「朝生」出演者を比べたとき、議論の水準において香山氏らが事実上完敗したことの理由を掘り下げる必要がある。
 
「平等ややさしさ」と言ったって、それは絵に描いた餅にすぎず、「平等」で「やさしい」社会が具体的にどういったものなのか、必ずしも自明ではない。思い描く個々人の職業、年齢、性別等々によって、理想の社会像も違ってきてしまうはず。その摺り合わせ自体がかなりやっかいなはずだけど、仮にそれを済ませたとしても、理想社会を実現するにはどうしたらいいのか、その方策をミクロ・マクロ両方の視点から練って、実行できるかは別の話だ。
 
「理想社会」のイメージが、橋下氏と香山氏で大きく違っているらしいことは明らかだが、橋下氏は自らのイメージ(それがはっきりと示されていないと香山氏は言うけれど)を実現すべく動き出す段階にあるわけで(形式的に、有権者の支持も得てしまっている)、反橋下側がとてつもなく後れを取っているのは間違いない。その自覚なしに、対等な議論なんてできるわけがない。
 
政治は「動かす」ことを使命とする。一方で、市民目線を標榜することは、自らを「動かされる」弱い立場におとしめている。別の言葉でいえば、動かすことの責任を自覚した相手を、自らの責任を放棄した弱者の立場から(守ってもらう存在として)糾弾するのは、子供が親に文句を言っているような哀れな構図を容易に招来する。東氏が「政治に口出すなら政治のルールで勝つしかない」というのはもっともなのだ。
 
近年の社民党がずっとそうだけれど、駄々っ子のような在り方を「政治」の一つのスタンスだと考えているフシがある。一部市民団体や零細政治団体のように、駄々っ子であり続けることによって自らの存在を細々と周囲にアピールするようなのもあっていいとは思うが、所詮は誰にも相手にされないし、何かを変えることはおろか、現状維持すらおぼつかないことをはっきり意識すべきではないかと思う。
 
現状の変革に同意してしまったら、すでに具体的方策を練っている橋下氏にかなうはずがない。その上での戦術は、変革すべき分野・レベルと、絶対に変えるべきでない分野・レベルを弁別して、後者を死守すべく理論武装すべきではないだろうか。ただし、大阪の公立小中高校がかなり困った状況にあることも縷々指摘されている。だから、教育分野も改革を必要としているらしいことも事実らしい。
 
それならば、今度はどう改革するのがいいのか、改革案で橋下氏側の上を行く「対案」を出すことしか対抗策はない。
 
ディベート以上にネゴシエーションが必要だというのはつくづく思うところだけれど、後者は絶対にゆずれない点を死守するために、相手との間に「落としどころ」を模索する手段である。ディベート術に長けた相手であれば、逆にネゴシエートが有効でもあるはず。しかし、「独裁」や「改憲」という言葉に過敏に反応して、全否定から入ってしまえば、交渉は決裂以外にありえない。結局は、ゼロサム思考なのだ。その流れでは、自派にとって決定的に重要な点をも守れず、残るのは「正しい自分が受け入れられなかった」という無反省な怒りのみである。
 
あまりにお粗末というべきだろう。

2012年1月24日 (火)

趣向を変えて、と言うか……

今日は動画だけ。

ちなみに、自分で歌いました(笑)。

 

 

 

【1/27 追記】 「第三者のコンテンツに一致」とのことで(広告が出るのがその証拠らしい)、このエントリーに限り、期間限定にするかもしれません。ご了承願います。

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