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2012年7月8日 - 2012年7月14日の1件の記事

2012年7月 9日 (月)

『困ってるひと』 by 大野更紗

「ためになる本」っていうと、普通はハウツー本とか、自己啓発系とか、ビジネス書なんかを想像する人が多いみたいだ。でも、たとえば文学とかでも、実生活に役立っちゃうケースがある。

当たり前だけれども、人は知識をため込んだだけでは何もできない。いや、知識そのものは大切で、その都度、必要に応じてストックしていくべきなんだ。でも、「知ってる」だけじゃダメなんだよね。自分の生き方をどうするか、「俺、どうやって生きたらいいんだ?」っていう問題に直面したときに、学んだ知識がすごい勢いでつながって、化学反応をおこして、決定的に重要な道具(サバイバルツール)になる。この道具化した知識が、つまりは「活きた知識=知恵」ってことなんだと思う。

でね、この「活きた知識」は、誰も教えてくれないんだ。ヒントをくれる人はいるし、ヒントを羅列した本はそれこそ大量に出回ってるけれど、自分でそれらを掛け合わせて、考えて、悩んで、使い勝手のいい道具に仕立て直さなくちゃいけない。

ただ、タイミングっていうか、必然性っていうかね、自分の人生に何か大きなイベントが起きた時じゃないと、化学反応はおきない。ため込んだ知識は、何もないときは、押し入れの中で眠ってるガラクタと同じで、使える道具にはなってくれないんだな。

文学作品とかだと、主人公に何かしらイベントが訪れる。「何も起きない小説」ってのも無いわけじゃないけど、登場人物が困難に巻き込まれたり、思ってもみなかった不幸にみまわれたりすることが多いよね。で、それを読む僕たちは、作品中の誰かになったつもりで、あるいは、その誰かと共同生活でもしている(間近で見ている)ような気になって、イベントを疑似体験するわけだ。

普通に生活をしていると、なかなか体験できないイベントを擬似的に体験することで、ちょっとだけだけれど、しまってあった知識が化学反応をおこすことがある。だから、出来のいい小説は「ためになる本」でもありうると僕は思う。

別の言い方をすると、知識をため込むのは(試験勉強とかを除けば)好奇心のなせる技だ。知らないことを知るのは、それ自体が面白いし、楽しいことでもある。でもね、それは大抵は「他人事」だったりする。ヒトゴトじゃない、切羽詰まった問題を解決しなくちゃならなくなったときに、脳内の化学反応は活性化するんだ。

結局のところ、「ためになる」っていうのは、サバイバルに役立つこと、豊かに、幸福に生きてくための力になるっていうことだ。べつに功利主義的な読書がいいってわけじゃないんだけど、人が知識を求めるのは、「生きたい」っていう欲求に根ざしているんだと思う。

前置きが超長くてごめん。ようやく本題に入るけど、最近文庫化された、大野更紗さんの『困ってるひと』(ポプラ社)は、今言ったようなことがリアルに体現されてるように思う。いやはや、すごい本だ。

是非読んで欲しいので、なるべくネタバレは避けるけど、ものすごく重い題材を扱ってて、それが大野さん本人の実体験なのに、明るい、ポジティブな本になってる。本人は困ってて、困りながら書いているのに、最初から最後まで、ずーーーっと読者を笑わそうとしている。このポジティブさ、『五体不満足』の乙武さんに通じるといえばわかりやすいかもしれないけど、やっぱり出た時代が違うよね。『困ってるひと』は、今の時代をすごく反映してるように思う。

ビルマ難民の支援を志して、大学院に進学した矢先に、非常に稀な難病を発症して死にかける。ステロイド治療は地獄、身体中ボロボロになり、おしり(臀部)には大きな「袋」ができて、座ることもままならない。困ってる人を救おうと思ってたら、自分が「困ってるひと」になってしまう。日本の医療制度の矛盾に翻弄されて、難民化する。

こういった内容なのに、お涙頂戴話にならないのは何故か。読者はみんな不思議に思うんじゃないかな。実際にこの本の中では、当事者になってはじめて気づいた様々な問題がとり上げられてるわけで、「可哀想なわたし」を前面に押し出すことで、制度改革を訴えるっていう方法もあったはず。でも、大野さんはそれを採用しなかった。そのことが、すごくいい。リアルなんだ。

これね、大野さんが現在進行形で「困ってる」、当事者だからこそできた境地だと思う。当事者にとって、「困ってるひと」は可哀想な、同情の対象なんかじゃないんだよね。ほんとに、どうしようもなく困ってるけど、いつまでも「わたしって可哀想……」なんていう感傷にひたってられないし、なにより「365日インフルエンザ状態」なわけで、そもそも可哀想がってる余裕もないわけだ。生きていくって決めたからには、目の前のあれやこれやと戦わなくちゃなんない。

大野さん、難病にかかって、それ以前にたくわえた知識が、ものすごい勢いで化学反応を始めたみたいだ。熱はあるし、体の自由はききにくくなっているけれど、いろんなことに気づく。恋もする。自分がいかに周囲へ依存してたかを悟る。人は優しいけれど、冷たいことを知る。そして、そこそこ居心地のよかった「オアシス」からも脱出をはかる。

同情とか憐憫なんて、ようするに高みの見物なんだよ。当然、「困ってるひと」がいるってことを意識して、その人たちに配慮することは絶対的に必要だとは思う。人って、ついつい自分基準で物を考えちゃいがちだからね。

僕たちは、支援や配慮を「可哀想」っていう感情と切り離して考えるべきなんじゃないのかな。「可哀想」って思ってしまった時点で、当事者と支援者の間には、どうしようもなく深い溝ができてしまうと思うんだ。下手をすると、「困ってるひと」に、哀れをさそうような「可哀想」な生き方を要求することにもつながったりする。当事者にステレオタイプの「困りよう」を期待して、そうじゃないことに「がっかり」しちゃったりする。

これから先、何があるかわからない。大災害がなくっても、ほんと、一歩間違えば僕らは簡単に難民化しかねない。それこそ、病気もそう、仕事もそう、平穏な、高みの見物が許される日常は、いつ崩れ落ちてもおかしくないんだ。今この時点で、たまたま「困ってない」ことが、かなり奇跡的なことでもある。そのことを、この一年で日本人は思い知ったんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。

とりあえず、「困ってるひと」目線で考えることは、いろんな意味でプラスになると思うんだよね。今現実に「困ってるひと」の在り方を想像すると、見えてくることが沢山あるように思う。その上で、いろんな社会的リソースをどうやって配分するかとか、実現可能な範囲内で社会システムをどう改めるのがいいかとか、面倒くさい問題をもう一度考えるのがいいんじゃないかな。

世の中を良くしようとして考えられた新政策が、実は「困ってるひと」を増やすこともありうるし、今それほど困ってない僕らが改めるべきだと考えるシステムが、「困ってるひと」の増加を食い止めている場合もある。想定する立場は、できるだけ多いほうがいい。その際には、社会的にマジョリティではなくとも、「困ってる」目線を一定程度重視しとくべきだと思う。自分自身の保険っていう意味でも。

それとね、やっぱり知識は必要だ。いろいろ頭にため込んでおいたことが、いつか自分を救うことになると思う。そういう機会(大問題の発生)が来なければ、無駄になっちゃうかもしれないけど、勉強って、やり方次第では、それ自体がエンターテインメントでもあって、楽しめるはずだしね。偏りなく、なるべく好き嫌いを言わずに、勉強しとこうぜ。知識にかんしては、「断捨離」なんてのはナンセンスだよ。

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