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2012年5月21日 (月)

逆読み「狂人日記」

Luxun

20世紀中国の文学者に魯迅という人がいる。中高の国語や世界史にも出てくるのだけど、「聞いたことある」という程度の人が多いみたいで、作品を記憶している人は意外に少ないようだ。長く国語教科書に採用された短篇小説「故郷」ならわかるかしら。あのコンパスのような足をした「豆腐屋小町」楊おばさんが出てくる話なんだけど。

で、その魯迅が口語(話し言葉)で初めて書いた小説が「狂人日記」(1918年)。中国最初の近代小説なんて言われたりする。

内容は、そのものズバリ、精神に異常を生じてしまった人(狂人)の日記という体裁で、彼はある日突然、周囲の人々が人肉を食べているという妄想にとりつかれる。それで、「俺も食われるんじゃないか」「周りの奴らの目つきは変だ。俺を食いたいに違いない」と思うようになるわけ。

実際に、歴史上人肉食が行われた経緯はあるらしくて、「狂人」がとりつかれた「食人」妄想が完全に作品の中のメタファー(たとえ話)とは限らないんだけど、とりあえず、一般にはメタファーと考える。少なくとも、「実際に昔の中国で人肉を食べる人がいた」ということが小説のテーマじゃないし、作者(魯迅)は、「食人」に別の意味合いを付け加えているから、そっちを重視しようということになっている。

じゃあ、「食人」が何のたとえなのかというと、「礼教」つまり儒教的な規則にがんじがらめになっている様子なんです。儒教っていうと、「目上を敬いましょう」とか、そんな悪いこと?って思うかもしれない。ただ、100年くらい前の中国では、今みたいにアバウトな感じじゃなくて、「孝悌」(こうてい)っていうのが絶対だった。「孝」は「親孝行」の「孝」で、親に仕えること。「悌」は兄に仕えること。ほかにも、目上に逆らっちゃだめだとか、妻は夫に従えとか、後付けで細かなきまりができる。さらに時代が下ると、どんどん極端になっていって、自分の二の腕の肉を切り取って病気の親に食べさせた子供が「模範的な孝行息子」だなんて、やたらに持ち上げられたりもした(これが「人肉食」とも重なるわけね)。

めっちゃ説明が長くなって恐縮だけど、こういう「子は親のために存在する」みたいな考え方をしているから、19世紀以来の中国が「近代化」から取り残されたのだ、っていうのが作者の考えなわけ。近代化したイギリス、フランス、アメリカ、ロシア、日本なんかが中国にケンカを売っても、当時の中国は太刀打ちできなかった。それで外国に好き勝手されちゃってた理由の根本に、儒教的な生き方があるっていうのが魯迅たちの考えだった。

当時の中国の人々は、全然人間らしい生き方をしていない。普通は、親は子供のため、子供は孫のために生きる。自分よりも子供には幸せになって欲しいと願う。その繰り返しの中で、人も社会も「進歩」「進化」していくんじゃないのか。それなのに当時の中国は正反対で、子は親のため、親は先祖のために生きている。少なくとも魯迅にはそう思えたわけね。

それに、虫や小動物は共食いするでしょう?進化した生物ほど共食いしなくなるっていうイメージもあったと思う。つまり、人間が人間らしい生き方をできず、目上の顔色をうかがってばかりで、よりよい生き方を考える道も閉ざされている状態(そのため近代化できない社会)が、「食人」社会っていうたとえにつながってると考えられる。

あと、「自分は得をしたいが他人に得をさせたくない」っていう利己的な社会っていうニュアンスもある。それが「人の肉を食いたいけど、自分が食われるのは嫌だ」って、常にビクビクしているって形で描かれる。

ところで、この主人公(狂人)なんだけど、いきなり彼だけが「この社会とんでもなくおかしいんじゃ?」ってことに気づいちゃった。そこで周囲の人々(特にお兄さん)を説得しようとする。でも、周りの人たちから見たら、当然「なんだこいつ」ってことになる。で、自宅に軟禁されて、「狂人」の烙印を押されてしまう。

さっき言ったように、「人を食う」ってのはたとえ話だから、作品中で周囲の人々が本当にみんな人の肉を食べていたかどうかはわからない。でも、仮に彼を除いた全員が「人を食べるのは当たり前で、何が悪いかわからない」と思ってたとしたらどうだろう。考えてみると恐ろしいね。何が「正常」で何が「異常」かは一概に言えない。外の世界の人(たとえば私たち)から見た「異常」さが、中の人々ほぼ全員にとっての「正常」だったら、客観的には「正常」なはずの人が「狂人」になってしまう。だから、通常この作品は、「狂人」が唯一の「真人間」で、ほかの全員が「狂人」なんじゃないかと解釈する。

なお、この主人公(狂人)だけど、やがて「自分も人肉を食べたことがあるかもしれない」可能性に思い至る。幼くして亡くなった妹の肉が食事に混ぜて出されたんじゃないか、「俺は妹の肉を食ったんじゃないか」って気づくのね。それで、自分も「食人」の一味で、イノセントじゃないって思うようになる。つまり、すでに体制に取り込まれていたことを意識するわけ。

「俺はすでに人食いの一味だ。でも、小さい子供なら、まだ人肉を食べていないかもしれない」と思って、彼は作品末尾の言葉を漏らす。

「救救孩子……」(子供を救ってくれ……)

これでお話はおしまい。その後彼がどうなったかははっきりわからないけど、たぶん「狂人」じゃなくなって、社会復帰した(つまり「異常」な社会のフルメンバーになった)可能性が高い。それらしいことが、この小説の前書きにちらっと書かれている。

はい、ここまでは普通の解釈です。以下は勝手な印象。というか、とてもじゃないが授業では話せないし、同業者からは非難囂々だと思う。魯迅の意図とも直接は関係ない。今私たちが住んでる21世紀の日本を考えると、「狂人日記」的な現状否定(それは「狂人」本人もそうだし、作者が作品に込めた考え方も)って、もしかしたらまずいかもしれないって思ったのです。

作品そのものが、昔の中国社会に対する強烈な問題提起になってたのは間違いないと思う。それに、作品の外の世界から見れば、「狂人」が「狂人」じゃなくて、「狂人」じゃない人々こそが「狂人」……ああ、ややこしいな。とにかく、彼が一人だけ「正常」っていうとらえ方が普通なわけですよ。

ただね、当時の中国がおかれたコンテクスト(文脈)を仮に無視しちゃうと、この「狂人」的な感覚を持った人って、問題だよなぁと思う。この感覚、反体制的な人たちに多い。長く「進歩的」と呼ばれてきた人とか、革命家とか。反体制の人々の一部にとって、体制は最初から批判すべきものだったりする。

いや、批判すること自体はいいんです。体制側が明らかに間違っていて、その方策が人々を不幸にすることがわかったら、私たちには反対する権利も義務もある。偉い人(政治家、官僚、組織の長、上役)のすることが全部正しいなんてこと、ありえないし。だから、私たちは時として「反体制」の側に身を置く必要もある。それには勇気が要るし、場合によっては孤立したり、職を失ったり、大変な目にあう可能性もあるけど、にもかかわらず声を上げて権力者や多数派に「NO」を突きつける人々は、確かに尊敬に値するよ。それに、現状に対する批判精神ってのは、それ自体が大切なこと。イエスマンばかりの組織が腐っていくのは、よくある話だね。

でも、体制側が常に、全体的に間違っているかどうかは別問題だ。また、反体制側がかかげる「正義」が、いつも大勢の人々を幸せにするとも限らない。「御用学者」とか「御用商人」とか、体制側っていうと悪いイメージがつきまとうけど、彼らの方が広い視野でいろんな問題に目配りできているケースもある。体制側が資金面とかいろいろ優遇されることもありうるにしても、それが即イコール「悪」ってことにはならない。

読んで下さってる方は、もう何が言いたいかわかったかもしれない。そう、昨年の福島原発以来の、反原発運動に関する印象を、私は今「狂人日記」に重ねている。学者や俳優やジャーナリストなど、ネット上を賑わしている反原発急進派の人たちに対して、私は全く賛同できなくなっている。彼らの言動から、私は「狂人日記」の主人公を思い出してしまった。

「脱原発」を中長期的に実現すること自体は、私も賛成だ。前にもここで何度か書いているけれど、日本で原発を新規建設することはできないだろうし、すべきじゃないと思う。また、今後「原発震災」が起きないようにするためには、考えられる限りの方策を尽くすべきだとも思っている。ただ、原発を止めることだけが人々を幸福にする(不幸にしない)唯一の方法じゃないはずだと思うんだ。この間、日本の全原発が停止したときに、祝杯をあげて喜ぶ人々の様子が報じられたけど、それっておかしくないだろうか。

確かに、もう一度福島第一と同規模の事故が起きれば、日本は(私たちは)お終いかもしれない。でも、電力が逼迫することで死ぬ人がいるのも事実だ。地縁や血縁でつながった共同体を離れて、それでも生活できるように日本社会は制度設計されてしまった。高層マンションに高齢者が住めるのも、電動器具のおかげだ。私たちが様々な病を恐れなくてよくなったのも、高度医療器具によるところが大きい(一昨年の冬にちょっとした病気を経験して、つくづく思った)。古き良き「電気がなくても幸福だった」時代に、私たちはもう戻れない。地縁共同体はすでに跡形なく、世界の歴史上例を見ない高齢化社会をどうやって維持する?

「電気は足りている」という人たちの説明に、私はどうしても納得できない。現在は火力発電でギリギリの綱渡りをしている。今のところ綱渡りはできているが、火力にたより続けて何年もつだろうか。「クリーンエネルギー」「再生可能エネルギー」の存在を強調する人たちは、その本格的実現を何年後と見積もっているのだろう。経済面への影響はどうか。「金と命とどっちが大事なんだ?」と問う人は、経済が人命に直結することを忘れている。

原発立地の住民が、再稼働に反対するのはわかる。もう理屈じゃなく怖いのもわかる。でも、20年以上は原発を併用し続けるしか道はないのじゃなかろうか(危険箇所の指摘される発電所を稼働すべきではないのは当然としても)。原発再稼働が拙速であってはならないのと同様、脱原発も拙速であってはならないんじゃないか。立地住民でない私には、強く言えない。立地住民の方々の恐怖と引き替えに、生活を維持することが後ろめたく、疚しい。それでも……私をはじめ、多くの非立地住民は、そこから言葉が続かない。

一方で、反原発急進派の人々は、言いよどむことがない。私は彼らの無邪気さが気になる。福島に住み続けることを決めた人々への暴言、福島県民のすでに一杯一杯であるはずの気持ちを逆なでする言動は、自分たちの主観的な「正義」を信じる無邪気さに裏付けられているように見える。無邪気さの裏返しの無神経さ、残酷さを、私たちは許しちゃならないんじゃないか。

被災地支援を地道に続けている反原発穏健派がいることを、私は知っている。彼らにこそ、急進派の無邪気すぎる「正義」の押しつけを厳しく批判して欲しい。子供や子孫への放射線被害をことさら言いつのり、親の心情をもてあそぶのをやめさせて欲しい。でも、ネット社会で繰り広げられている非道な行いを、あまり認識していないようだ。また、一部には「反原発」という「正しい」行いの一環である以上、問題にしないむきもある。目的が共通していても、やり方を誤れば運動が瓦解するか、仮に目的達成が成ったとしてもその先に幸福がないことは、20世紀の社会運動で学んだはずじゃなかったのか。

急進派は、ちょうど「狂人日記」前半までの主人公のように、自分がイノセントだと思っている。一方、「狂人」は、自分がすでに体制に取り込まれ、イノセントでなかったことを自覚して、はじめて絞り出すように「子供を救ってくれ……」と漏らしたのだ。この罪の自覚があったから、「狂人日記」は近代小説としての質を持ちえた。無邪気な彼らのスローガン「Save Child」の内実は、「狂人」と比べるまでもなく軽薄に感じられてならない。

 

【追記】合わせて読んでほしい。1年ほど前にも紹介した、たくきよしみつさんの最近のレポート。私たちの想像を超える難しい現実がある。これについて、善悪を軽々しく言うのは慎みたい。(5/22)http://gabasaku.asablo.jp/blog/2012/02/19/6340245

【追記2】こちらもお読みいただきたい。除染における問題点のほか、外部の人間の福島に対する眼差しについて考えさせられる内容になっている。(5/22)http://synodos.livedoor.biz/archives/1891136.html

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