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2012年2月 8日 (水)

山を下りていけば

五木寛之氏の『下山の思想』(幻冬舎新書)が話題になっているらしい。NHKの朝のニュースで取り上げられていた。読んでいないので批判的なことを書く資格はないのだけれど、いささか気になることがある。

昨年4月6日に、平川克美氏の『移行期的混乱』(筑摩書房)について触れた。そこで私は「老成した国家が弱肉強食の競争から一歩引いて、国際社会で一定の尊敬を集めつつ存続することは可能ではないか」と述べた。その考え方自体は今でも変わってはいない。日本が進歩・発展をがむしゃらに追い求めることは、実際問題として難しくなりつつある。

その上で気になるのは、経済発展=「坂の上」を目指して上っていくのをやめることに一番抵抗を感じるのは、実は財界の重鎮たちではなく、若い人たちではないかということである。彼ら自身の多くは、就職活動などを通して、日本経済の低迷を実感してはいても、今のところ「下山」に対して何かしらの感慨を持つことはないかもしれない。しかし、還暦を過ぎた方々がご自身の年齢と相応の「枯れた」国家像を提唱するのは、いささか勝手ではないかという気がしてならないのだ。「枯れた」国家像が、10代20代の若い人たちにも魅力あるものとして提示できるものかどうか、いささか怪しい。

高度経済成長を体験した方々、青春時代に自分の成長と日本の成長がシンクロした経験を持つ方々が、老齢に達し、来し方を振り返って、「下山」を意識されるのはいい。しかし、これから社会に出て行く若い人たちが、「輝かしい将来」を思い描くことを禁止できるわけではない。

そう、問題は実は「輝かしい将来」のイメージをどういったものとして規定するかにかかっている。「下山」という言葉には、山上で味わった興奮を胸に、日常(現実)に回帰するというニュアンスがあるように思う。そこに「味わい」は豊富でも、「輝かしさ」は希薄だ。

「枯れた」国家像に、肉体的・精神的な成長過程にある若者にとっても希望の持てるイメージを付与できなければ、「下山の思想」は「年寄りの身勝手さ」ととられかねない(読んでいないから、もしかしたら「若者の希望」につながる提言がたくさん含まれているかもしれないので、そうであったら謝りたい)。物質面、経済面における豊かさ以外の「輝かしさ」は当然あっていいわけだが、「絵に描いた餅」的なものを除いて、私はあまり目にしたことがない。その点こそを問題だと思うのである。

人と人とのつながりが密な村落共同体的なもの、あるいは「小国寡民」を理想とすることもアリだと思う。しかし、今の世の中で、それこそは実現の難しい夢物語に近い。

また、現在の生活レベル(これは当然、物質面、経済面を含む)が維持されることは重要であり、そのためには国や企業がなおも「成長」を続けようとしつづけることが必要となろう。今以上の実質的成長、豊かさの実現が仮に不必要であったとしても、「成長しよう」とし続けることでしか現状維持は望めず、「下山」を過度に意識することは凋落=生活レベルの数ランク低下を招きかねまい。

山を下りていった先に何を見ようとしているか、その理想像から除外される存在(要介護者、子供、マイノリティ)はないか、細かく考えた上でなければ、提言は実現可能性の有無は措いても、無責任の謗りを免れない。この1年で、そうした点をクリアしているかどうかがことさら重要に思われるようになった。

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