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2011年12月25日 - 2011年12月31日の1件の記事

2011年12月26日 (月)

ああ「絆」

4ヶ月もほったらかしにしてしまった。もうすぐ2011年も終わりだ。

ほぼ毎日更新していたときも、見て下さっていたのはせいぜい20人程度、訪問者1桁という日も珍しくなかったから、更新がとまったとしても、誰かを残念がらせる心配をしなくていいのは幸いだった(ちょっと自虐的な反省だけど)。

さて先日、例年通り「今年の漢字」が発表された。今年は「絆」だって。

なんだか嘘寒い。「絆」自体はいい言葉のはずなのに、白々しい。この感覚、何かに似ていると思ったら、標語とかスローガンを見たときのそれに近いことに気づいた。

中国に行くと、横町の入り口に大きな段幕が貼られていたり、壁にもペンキでデカデカとスローガンが書かれていたりする。一昔前の「為人民服務」もそうだし、最近の「促進社会和諧」もそう、ようするに、実現の困難な(ちょっとばかり高尚な)テーマを目につくところに掲げることで、住民の意識向上をはかろうというわけだ。

日本では、交通安全の標語などがそれにあたる。私は昔から、あれの存在意義がよくわからなかった。5・7・5のリズムに乗せて、上から目線でそれらしいことを訴えているけれど、日本語表現としての深みだとか、美しさだとかは原則皆無。そこはかとない嫌悪感が先に立って、いたたまれない気分になる。

サブリミナル効果として、何らかの意味はあるんだと思う。標語をあちこちに貼り出すことで、犯罪や違反が減少するという統計なり調査結果なりがちゃんとあって、だから延々と続けられているのだろうとは思う。でも、なんだかとても残念な、もっと言えば薄ら悲しい気分にさせられるのは、いかんともしがたい。ああした残念な用法は、日本語に対する侮辱ではないかとすら思う。

あくまでも私個人の感覚の問題なわけだが、その流れで考えれば、漢字検定協会(「漢検」自体が、どうにも納得しづらいものだったりする)によって今年の漢字に「絆」が選ばれたことが、「絆」という言葉の崇高なニュアンスを貶めているような気がしてくる。私たち日本人にはそもそも「絆」が得難いものであることを暗にほのめかし、その上で多くの日本人に「絆」という言葉を連呼させることで、国民意識の向上をはかろうという意図が透けて見えてくる(ような気がする)。

そうではなくて、震災以降多くの人々が「絆」の重要性を再確認し、今年日本で最ももてはやされた概念が「絆」だと(誰か偉い人が)本当に考えているなら、あまりにもナイーブにすぎる。震災と原発事故は、日本人の人的ネットワークを新たに繋いだ側面もあったに違いないが、それと同じくらい切断したことも間違いなく、身内と他人との線引きを「見える化」してしまったように思われるからだ。

東北支援を訴える人々がおり、「食べて応援」キャンペーンが行われ、ボランティアとして多数の人々が被災地を訪れた。震災直後には被災地の報道に涙を流し、「自分にも何かできることはないか」とかなりの人が頭をめぐらした。経済的に余裕のある人も、そうでない人も義援金を惜しまなかった。

当初、東日本に住む人々には当事者意識が共有されていた。3月時点で生命の危険にはさらされずとも、地震の揺れを経験し、短期的な将来予測がつかない中で、周囲の人々とのつながりが本能的に重要視された(多分、不安だったから)。この時、「周囲」の範囲は拡大し、東北の人々も「仲間」であり「同胞」であり、「身内」として意識されたに違いない。

しかし、本能的な連帯は、生活が落ち着きを取り戻すとともに理念的になっていった。南関東在住者にとって地震や津波の被害は「過去」のものとなり、原発事故の影響ばかりが取り沙汰されるようになった。守るべき「身内」は文字通りの家族や友人のみに限定され、東北(特に福島県)は、「身内」に危険を及ぼす忌まわしい場所であると見なす人々が現れた。

私たちは放射性物質による汚染と、今後長期間にわたって付き合っていかねばならない。家族(特に子供)の健康を案じることは大人の義務であり、守るべき対象に優先順位を付けること自体は仕方のないことだ。それにしても程度というものがある。少なくとも、根拠の薄弱な暴言を吐き、東北の人々の働く権利、生き甲斐を求める権利を侵害し、彼らの誇りを足蹴にしていいわけがない。私たちは「恥」を知るべきだ。

口に出した途端に、嘘くさくなる言葉というのがある。大切な人への感謝の気持ちや、狂おしいほどの愛おしい気持ちも、胸の中に秘めていてこそ純粋さが守られることがある。もちろん、思っているだけじゃ伝わらないわけだけど、本当のことは開けっぴろげにしにくいものじゃないだろうか。表現を選びつつ、口ごもりながらでなければ言えないことというのもあると思うのだ。

人と人とのつながりも、そんな微妙な、センシティブな事柄であるはず。大切なことは寺院の奥に安置された「秘仏」のように、あまり人目につかないようしまっておきたい。「絆」とはそういうものだ。少なくとも、衆人環視のもとでデカデカと書いていいものではないように思う(文革の時の中国では、「忠」という文字も一種のスローガンだった。これも嫌らしいと思う)。

人によっては生臭かったり、少し淫靡なイメージをともなったりもするかもしれない。そうでなくとも、「絆」がきわめてドメスティックな概念を基礎にしていることは間違いないと思う。思い浮かべると心が温もるような、ちょっと赤面するような誰かとのつながりが連鎖して、全くの他人も広い意味での「身内」として感じられるようになることは理想的ではある。しかし、そのためには最もドメスティックな、コアになる感情を深く、じっくりと胸に秘めておくことが必要なはず。

本当に大切なことは、スローガンにしてしまってはいけない。薄っぺらく、嘘くさく、白々しいものになってしまうから。

だから、「来年が少しでもいい年であるように」ということも、口に出して言わない。「みんな幸せであるように」とも言わない。

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