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2011年8月28日 - 2011年9月3日の1件の記事

2011年8月31日 (水)

体育会系

学生の短期留学引率で、中国の某市に行っていた。あちらで論文を書こうと7~8冊本を持参したが、結局ちょっとめくっただけで、腰を据えて勉強する気分にならなかった(ダメですね)。なぜって、なんだかとても楽しかったのだ。

キャンパスの周りには、そこそこ味の良いレストランが10軒くらいあり、毎日昼か夜には5~6人ずつ学生を連れて、ちゃんとした食事にありついた。1人ではそうはいかない。日本の中華と違い、本場の中華は大人数で食べるようにできている。冷菜を1~2品、温かい野菜系を2~3品、魚か肉のメインを2~3品に、スープと主食、ビールとジュースを追加しても、1人あたり400~700円くらい。当然、私が少し多めに払う。

学食なら定食的なものもあるのだけれど、あまり美味しいとはいえないし、なにより大皿の料理を皆でつつきあいながら、1品ずつあーだこーだ批評し合う方がおもしろい。それに、食べたことのない料理を口にして、意外な美味しさに出会うと、脳が活性化するのがわかる。ライギョの「水煮魚」(薄切りにした魚をモヤシとともに、たっぷりのラー油で低温で煮たもの)、「紅焼小甲魚」(小振りなスッポンの姿煮)、食用蛙と雪菜(高菜に似た漬け物)のスープなど、日本人的にキワモノを常に数品混ぜてみたが、ほとんどの学生は嫌がらずに食べてくれた。某市のレストランのレベルがかなり高かったことも幸いしたのだろう。

放っておくと、彼ら1人ずつ餃子と炒飯とか注文しちゃうし。知らなければ当然なんだけど、1人で食べるように作っていないので、山盛り水餃子と味の薄い超大盛り炒飯がどーんと登場して、辟易することになる。どっちも主食だから、何人かで料理をいくつか頼んだ上で、最後に餃子や炒飯をつつきあってお腹いっぱいにするのが正しい。餃子&炒飯だと、素うどんをおかずにおにぎりを食べるようなイメージだ。

1人だったら、麺や餡餅(中に具を入れたパイ)を食べればいい。間口の小さな汚い店や、テイクアウトオンリーの店が多いのだが、最近の都会で繁盛している店なら、腹をこわすようなことも少ない。「ちょっと味が変かな」と思ったら、残したっていいんだし(そういう店は、1人前50円くらいだ)。

そんなわけで、「昼は何を食べようかな」「夜は何を食べさせたら喜ぶかな」というようなことばかり考えていた。夕飯の後は、その日の授業で分からなかったところをアドバイスして、助詞の“了”や介詞の“把”、補語など、ちょっと難しめの文法事項をレクチャーしたり、寝る時間までトランプや麻雀をやったり、いやぁ楽しかった。

教員のほとんどは、基本的に「教えたがり」である。実を言えば、必要最低限の給料さえもらえれば、あとは無償でも教えたいのだ。ただし、「教わりたい」という学生に恵まれる機会は、必ずしも多くない。中国語に限ってみても、学生の多くは「中国語が使えるようになりたい」とは思いつつ、そのための労はできるだけ省こうとする。可能な限り効率的な技能修得を彼らは望む。だから、教員の「教えたい」欲求は、しばしば一方通行になり、空回りしはじめる。

手を変え品を変え、学生が「教わりたく」なるよう試行錯誤するうちに、いつしか教育の意義は失われていく。多くの学生にとって、良い授業は「労少なくして益多い」ものであり、ここで「益」は、端的に「修得単位」のことである。理想的には、単位修得は知識技能の修得を証明するものであるはずだが、現実にはそうなっていない。そこで一部の教員は、「労の少なさ」をほのめかし、「話のおもしろさ」にのみ習熟していく。もちろん、「おもしろい」のはいいことだ。だが、それが当該科目が本来的に有する「おもしろさ」と何の関係もなく、単なる話術である場合はどうだろうか。「科目は嫌いだけど先生は好き」といった状況を招き、本末転倒となろう。

本来は、自分が教えている科目について、学生に好きになってもらいたい、そのための試行錯誤であったはず。教員は、学生と当該科目との媒介者に過ぎず、担当授業の人気取りが自己目的化してはならない。だが、そうはいっても、「教わりたいと思っていない」学生を前に、教員はどうやって媒介者をつとめればいいのだろう。

この問いに正解があるとは思わない。しかし、経験上確かなことが1つある。それは、中学や高校で体育会系部活動を経験した学生の方が、そうでない学生よりも「教わりたい」と思うようになる頻度が高いということである。それは、彼らが技能修得には労を厭わないことと関係しているように思われる。

ひたすら球拾いをさせられたり、先輩の言いつけには絶対服従だったり、体育会系部活動の多くは、下級生に不条理を強いる。その負の側面もたくさんあろうし、不条理の度を超せば社会問題ともなる。だが一方で、何かを学ぶに際しての基本的な心構えを形成する上で、不条理に耐えることは不可欠ではなかろうか。

学び始める段階で、入門者には「何が重要か」を判断することができない。その時点の彼にとっては「無駄」と思えるようなことが、実は非常に重要かもしれない。「労を省こう」という意識が、これから学ぶ内容の根幹に関わる内容を捨象することにつながるかもしれない。だから、まずは「黙って言うことを聞いてみる」のが必要となる。そこで、「なぜそれが必要か」を問うことは許されないのだ。

自我が芽生え始めた子供は、「なぜ」を連発する。それ自体は大切なことだが、ある時点で「いいから言う通りにしなさい」と問いをはねつけることも必要である。どんなに懇切丁寧に説明しても、幼児には理解できない理が存在する。肉体的・精神的成長を待たなければ腑に落ちることのない理に対して、子供は嫌々ながら従うことを強いられる。自らの成長を経て、少ないながらも自身の経験をふまえることで、はじめて不条理は不条理でなくなるのである。

大学生に「いいから言う通りにしろ」と言うことは難しい。それを口に出せば、説明責任を自覚しない横暴な教員のレッテルを貼られることになろう。だが、体育会系部活動を経験した学生の多くは、目前の不条理を、まずは一旦受け入れてみることに慣れている。自分が現在持っているモノサシでは計れない物事が、この世にはたくさんあるということに、無意識に感づいているということなのだろう。

なんだかよくわからないながら、与えられたミッションに取り組んでみる。そのミッションが持つ意味自体は、まだ了解できないけれど、取り組み方には創意工夫が可能であり、取り組みに労力を割くこと自体、得体の知れない快感がある。ミッション達成に際しては充実感もある。そういった経験を積み重ねるうちに、技能は少しずつ修得され、やがて与えられるミッションは必要でなくなる。不条理は大方消え去り、自分がしてきたことが「なぜ必要」だったのか腑に落ちる。そうなれば、彼はすでに指導者として独り立ちできるだろう。当然、引き続き学び続けることが大前提ではあるが。

一定期間以上の学習経験と、最低限の知識・技能は必須だが、指導者には必ずしも抜きんでた知識・技能は必要とされない。ただ、入門者にとって「なんだかすごい人」でありさえすればいい。そして、自身が修行中の身であることを自覚しつつ、身につけた内容を他者に与えたくてウズウズしている人は、きっと教員に向いている。

さて、今回学生を引率してとても楽しかったのは、彼らがどん欲に学びたがっていたことと関係がある。日本で受けた中国語の授業で成績は良くても、経験値が圧倒的に不足している彼らは、当初日常会話もおぼつかない。そのことが、目の前に差し出されたミッションを選り好みせず消化するという方向に誘ったのだろう。なにしろ日本語の全く通じない環境に来てしまっているのだから、「なぜ」を問うことが詮無いことであるのは明らかだった。

日本では、教員の説明を「ふーん」と聞き流していただろう学生が、私のちょっとしたアドバイスを「おおー、そっかー、やっとわかりました」という具合に、感動をもって受け入れてくれる。こんなに嬉しいことはないわけだ。ライギョや食用蛙やスッポンを美味しそうに食べるのを見ても(私は単に注文しただけで、無理矢理食べさせたわけではない)、彼らがオープンマインドになっていたのは明らかであり、それは学習に経済性(労を省くこと)を求める姿勢の対極にある。

もちろん、全員が上記のような状態にあったわけではなく、数人は環境への適応に困難を感じており、それへのフォローに追われた側面もある。しかし、むしろ大半が適応困難を訴えるのではないかと思っていた私としては、それがごく少数であったことに驚かされた。積極的に街へ出て買い物をし、キャンパスの施設を予約してスポーツをし、中国人学生と本屋をめぐり、ちゃんと留学を楽しんでいて頼もしかった。

いろいろ話していてわかったのは、参加学生の大多数が体育会系出身であったこと。それで、上記の内容を思いついたわけである。まぁ、今の世の中的には受け入れられにくい理屈かもしれないけれど、一理あるとは思わないだろうか?

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