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2011年7月10日 - 2011年7月16日の1件の記事

2011年7月12日 (火)

「母」たちと子供の健康

『毎日新聞』7月9日の記事で、放射性物質の子供への影響を考える有志の全国ネットワーク(子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク)が紹介されている。

http://mainichi.jp/select/today/news/20110709k0000e040031000c.html

ここに書かれた内容自体は、ある意味賛同に値するものだった。小さなお子さんをお持ちの方々は殊の外不安を感じておられるだろうし、行政を信用できない中で、「母の立場」からの自発的行動がおこることは自然であり、それをまとめ上げる組織への期待はいやが上にも高まるはずだからである。

いきなり話は変わるが、先月『AERA』でとり上げられた母親の事例は衝撃的だった。母親としての不安と危機感は察するに余りあるもので、彼女の行動を批判することは私にはできない。しかし、「これでは心身ともにもたないのじゃないか」という印象をぬぐうことができない。

http://www.aera-net.jp/summary/110619_002443.html

震災後、『AERA』の報道姿勢に対して、私は懐疑的になった。それまでは好意的に読んでいただけに、あの「放射能が来る!」以降は失望が先に立った。すでに随所で語られているが、センセーショナルであることを旨とする週刊誌の立ち位置が、政治家や官僚とは別の意味で、一般の生活者とかけ離れたものであることを再認識せざるをえなくなった。関東以西に住む人々の非論理的恐怖感に火をつけ(可能な限り論理的で客観的に危険性を訴える立場は必要だが)、しばしば東北の被災地に住む人々の気持ちを踏みにじりながら、自己はあくまでもイノセントな立場にあると錯覚しているように思えたのだ。

専門家の言葉を断章取義的にとり上げたり、話の中のキャッチーでセンセーショナルな一節を意図的に記事の題名にする(中身をよく読むと、必ずしもそう言い切っていないことがしばしば)傾向がはなはだしく、はからずも記者のレベルの低さを露呈しているかのようである。原発や放射線被害に関する報道では、おそらく記者(あるいは編集部)は、「正義」と「良心」に突き動かされて取材・執筆を行っている。だが、「悪」の対立概念としての「正義」に身をゆだねることが危険であるという認識が薄いように思われる。

「見えない「敵」と闘う母」をとり上げた記者の目的が何であるか、本当のところはわからない。しかし、彼らは間違いなくこの「母」に同情し、共感している。その上で、彼女をそのように仕向けることになった原発災害への批判を喚起し、人災の発生に関わった悪しき人々への怒りを醸成しようとしているように読める。

20世紀中国の作家・魯迅の短篇小説に、「明日」(原題:明天)という作品がある。おおよそのストーリーは、次のようなものだ。

「一昨年、夫と死に別れた単四嫂子は、三歳になる子供の宝児を女手一つで育てている。息子の具合が悪く、なけなしの金で漢方医に見せ、薬も買った。しかし宝児はよくならず、とうとう死んでしまう。彼女はささやかな葬式を出し、全ては夢でないのかと思う。しばらくして、宝児は本当に死んだのだという実感がわいてくる。せめて夢の中で子供に会いたいと、彼女は眠りに落ちる……」

「明日」というのは、息子の容態が悪化した際、真夜中ということもあって、単四嫂子が「明日になれば子供は元気になるかも…」と思ってしまったことからきている。彼女は「無知でおろかな」女であるという設定なのだ。

この小説のポイントは、1.周囲の人々が彼女に表面的な同情を寄せつつも、誰一人本当に彼女の心に寄り添い、泣いてはくれず、彼女が徹底的な孤独の中にいるということ(文中で「無知」という断定を加えているが、彼女の哀しみを知るのは作者以外にない)。2.「無知でおろかな」彼女にとって、子供の病気を治す方法は占いや民間医療以外になく、それがもとで子供を死なせてしまうという2点であろう。

19世紀末から20世紀初頭の中国では、こうした悲劇が数限りなく繰り返されていた。単四嫂子の悲劇はありふれているが、魯迅はこれを身につまされる悲劇として認識することを読者に訴えたとみることができる。魯迅は同時期のエッセイで、口を酸っぱくして迷信の打破と科学的思考の重要性を訴えているが、それによって悲劇の減少とより良き社会へのイメージを醸成することを目指しており、「明日」をはじめとする一連の初期小説と社会改革への提言は完全に軌を一にしている。

さて、『AERA』記事にあった「母」のイメージは、様々な違いはあるにもかかわらず、単四嫂子と重なってしまうように思えるのだ。もちろん、その「母」は「無知でおろかな」女性ではなく、子供を守るためにあらん限りの方策をとろうとしている。記者は、この「母」を反面教師として提示したわけではない。子供の命は彼女によって厳格に守られており、悲劇的な状況に至るわけではない。しかし、この痛々しさを、私たちは好意的に受け止めてよいのだろうか。

読者の意識を、この「母」を痛々しい状況に追い込んでいる国や東電を憎み、反原発の必要性を認識する方向へ向かわせるというのが記者の意図であるならば、それは失敗だろうと思う。通常より放射線量が高いとはいえ、千葉在住の彼女の反応はやはり過敏というべきであり、若干極端な例であることは間違いないからだ。いわゆる「安全厨」は彼女を笑うかもしれないし、気持ちは理解できたとしても違和感を覚える私のような人間も少なくないはずである。

前にも述べたが、現状を変えることを意図するならば、「善」と「悪」の対立の構図を脱却して、現状肯定派の中にも多数の賛同者を形成しなくてはならない。その際には、極端な意見や行動に対しては、同情をよせつつも距離を置くという姿勢が必要である。また、一定の科学的理解もやはり必要であり、怪しげな主張は(主張そのものの方向性が、自派にとって「正しい」ものであっても)退ける努力が必要ではないだろうか。

自派にとって「正しい」主張であっても、そこに怪しげな認識が混入しているなら、反対派に付け入られる原因となる。「脱原発」論においては、そのことに対する認識が弱いのではないかという危惧がある。

さて、ここで冒頭の「子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク」の話に戻る。『毎日新聞』の記事内容自体は穏当であり、そこだけを見ると、応援したい取り組みであるように思える。しかし、少し待った方がよさそうなのだ。

同ネットワークの発起人で、NPO法人「チェルノブイリへのかけはし」代表の野呂美加氏の講演が、動画サイトでも話題になっているし、ネット上ではPDF版の講演録も大変好評のようだ。そこで仰っていることには、確かに有意義な内容も含まれている。

しかし、「かけはし」のHPを見ると、どうにも納得しづらい面がある。

http://www.kakehashi.or.jp/

福島以前に、チェルノブイリにおける放射能被害を訴え、被災した子どもたちの転地療養を実践されてきた野呂氏が、善意で活動されていることに疑問を差し挟む必要はないと思う。しかし、今回の原発事故以降の子どもの症状(鼻血、下痢、喉の痛み、湿疹等)が、チェルノブイリで見られたものに等しいとしている。

http://www.ironnakatachi.com/kenkousoudan/

確かに、低線量被曝については不明な点が多く、自信を持って「大丈夫だ」とする根拠に乏しいことは明らかだ。しかし、ここで挙げられているのは急性症状である。低線量被曝についてわかっていないのは、晩発的症状(確率的影響)についてであり、急性症状(確定的影響)についてはその限りでない。(注1)ここで述べられているのが、少なくとも一般的認識とはほど遠い、異端的理解であることに注意したい。少し引用しよう。

「チェルノブイリの村で年間被曝量1ミリシーベルト以下であっても子供たちに症状はあらわれています。」

「関東でこのような症状があらわれているのに、すべてを花粉症やアレルギーのせいにすること、「長引く風邪」と言われることも、母親たちを納得させることができませんでした。」

「わからなければ、わからないでしかたない。「放射能のせいだと因果関係をつけられない」のも理解しています。でも、今、薬で治らないで苦しんでいる患者さんたちがいること。2週間以上も止まらない下痢が子供に続けばお母さんたちがパニックになることも理解してあげてください。」

「しかも、その下痢は薬では止まらない。どんどん強い抗生物質を投与していませんか?傷んでいる腸にそんな強いものを投与したら子供たちの腸はまいってしまいます。放射能が原因の場合、どの症状も薬では止めることはできません。」

子どもの健康を不安視する母親の気持ちはわかる。だからこそ、この提言の持つ影響力は大きいだろう。ちょうど、『AERA』でとり上げられた母の心情をトレースする形になっており、自分の直感が裏付けられたと感じる母親は多いはずである。

そこで野呂氏が提示する方法が、「母の愛」と「酵素」と「EM菌」である。「母の愛」自体は良いものだが、もう十分に愛情を注いでいる母親を、それ以上の愛を絞り出す方向へ導きはしないだろうか。そして、母の鬼気迫る様子に、子供が巨大なストレスを感じることはないだろうか。下痢や湿疹が、ストレスによってももたらされる可能性を完全に排除すべきではあるまい。

もちろん、何かあった後では遅い。親が子供を守ろうとする姿勢は素晴らしい。しかし、EM菌をここで持ち出すのは、いささか反則の気味がないわけではない。ご存じの方も多いだろうが、これまでもしばしばEM菌は物議を醸してきた。実際に効果があったという報告もある一方、それが怪しげなニュアンスを含むことも知っておくべきであろう。特に、今回初めてEM菌の存在を知った方々が、雪崩を打ってこれに飛びつく状況は(仮にそういう状況が出来しているとしたら)緩和すべきではないかと思う。

EMについては下記のブログが参考になる(この方が提唱している「科学的・論理的な反原発」に私は親近感を覚える)。いろいろな意見を分かった上で個々人が用いるには問題はないと思うが、EM菌を画期的解決策であるかのようにアピールするのは、危険であろう。

http://genpatsukaigi.blog59.fc2.com/blog-entry-4.html#comment30

「かけはし」HPに寄せられた意見には、関東からの疎開を訴えるものが数多く見られる。確かに、関東も十全に「安全」と言い切ることができるわけではなく、長期的な影響がないと断言するのは難しい。しかし、西日本や海外へ移住できる状況にある人が、本人や子供の自由意思を確認した上で疎開するならいいが、そうできないことに負い目を感じるような雰囲気を作るべきではない。移住できないことを「母の愛」の不足であると考える人が出てくることは避けねばなるまい。

子供が危険にさらされていないか見守るのが大切なのは言うまでもない。だが、親がニコニコ笑っていること、生きる喜びを感じていること、美味しそうにご飯を食べ、元気に仕事をしていることも、子供にとって必要なことではないだろうか。自分が子供だった頃のことを思い出して欲しい。いつも余裕がなく不安そうな母親、笑うことのない父親と暮らすことが、かなりストレスフルな環境であることがわかるはずだ。

一定以上の教育を受け、決して「無知でおろか」ではない母親たちのイメージが、単四嫂子と重なってしまう。彼女たちは連帯を知り、孤独ではなくなりつつあるかもしれない。しかし、その連帯が閉じた共同体を構成し、自らの認識の「素晴らしさ」に固執するようになれば、今度は団体として孤立するだろう(結果として、本当に子供の環境を改善し、脱原発を進める際に支障を来すおそれがある)。また、科学で証明されたことが全てだというわけではないが、EM菌などの提唱がネックになり、運動体として十全の力を発揮することができない可能性もある。

本人たちに悪意がなく、仮に100パーセントの善意に突き動かされた動きであろうとも、私は「子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク」について、距離をとることが妥当ではないかと思う。

注1:低線量被曝に関しては、随所で詳細に論じられるようになっているが、下記HPには歴史的経緯も含め、比較的わかりやすく紹介されている(原子力の必要性を主張したことがあるため、ネット上では作者を「御用学者」と切って捨てる意見もあるが、少なくともこのページにおける解説は説得的で、信憑性が高いように思われる)。http://www.yasuienv.net/LowDoseExp.htm

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