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2011年6月19日 - 2011年6月25日の1件の記事

2011年6月21日 (火)

40年後

菅直人が辞任するのかどうか。テレビを見ていると、こればかり喧しい。「菅やめろ」派にもいろんな考えがあるんだろうが、自民党主流派をはじめとする人々にとっては、菅直人=ケガレなんじゃないかと思えてならない。菅直人が首相の座に居る限り、原発事故の負のイメージがこの国を席巻する。だから、「前向き」な議論はできないということに(彼らの頭では)なっているように見えるのだが、いかがだろう。

原発事故の負のイメージというのは、容易に「原発自体の負のイメージ」に読み替えられる。菅直人自身が本当に「脱原発」を意図しはじめているかどうかは別として、原発をなおも推進(ここには消極的推進も含まれる)しようという人々にとっては、菅首相が目の上のたんこぶに見えるのではないか。

「前向きな」議論というのは、ここでは原発に対する極めてマイナスなイメージを、プラスマイナスゼロに戻した上で行われるべき将来計画ということである。原発事故を、可能な限り「なかったこと」にした上でなされる「成長」政策である。そんなものは不可能であるというのが、多くの人々の実感であるはずだが、そう考えていない人が一定数いる。政界と財界の上層部には、どうもその傾向が強いように思えるのである。

いや、別に根拠はありません。ただ、菅が首相でいる場合と辞任した場合とで、何がどう変わるかを想像すると、原発事故の収束が早まることはなかろうし、与野党合意がされやすくなる可能性は増すけれど、実際に現在の日本の様相が一挙に好転するなんてことはあり得ない。

与野党合意ということに限っても、この3ヶ月来の政府の対応のまずさは、確かに糾弾されるべきものを多く含むけれど、野党側が足を引っ張った事実も明らかであって、これだけの災害(人災を含む)に際して、これほどまでに非協力的な野党の姿勢は驚くべきものだった。全てではないにしても、自分たちが足を引っ張った結果として出来した事態に対しても、現内閣に全責任を負わせるようなところがある(特に自民党執行部)。

菅の肩を持つ気はさらさらない(好きか嫌いかで言えば、私は彼が嫌いだ)けれど、多くの致命的なミスを犯しながらも、現政権には最大限の努力点を付与したいと思っている。政治家に対して「頑張ったからいい」なんてことを言うべきでないのは明らかだが、仮に自分があのポジションにいたことを想像するに、彼ら以上の働きができた自信はない。もちろん、私は政治家にはならないし、常人にはない能力と気力を備えた人間が政治家になり、大臣になるのが理想ではある。しかし、理想と現実の間には大きな差があるものだ。

結局のところ、日本には平時の宰相しか育っていないのだ。緊急時に力を発揮するタイプの人間は、平時においては「役立たず」の汚名を着て、頭角を顕すことができない。だから、現役の日本の政治家に完璧な事故対応を期待することはできない。そんな中で、多くのミスを犯しつつも、現政権は能力の限界までは努めたと私は思っている。そして、もし菅直人以外の人間が首相であったとしても、結果は今よりマシであったかどうか、どうにも心許ないのである。

それで、「菅やめろ」派が、菅直人とともに葬ろうとしているものが何かを考えるに、端的に言って「脱原発」の流れではないかと思うのである。菅だって、浜岡以外は容認という立場をとったのは事実だが、少なくとも自然エネルギー導入に舵を切る素振りは見せたし、そもそも浜岡停止の決定は(それが自身の延命策であったかどうかはさておき)英断であったとすべきである。しかし、この流れがこれ以上強まり、国民の大多数の共通認識となる前に、なんとか沈静化させたい人々がいるのではないか(経団連あたりは、どうもそんな気がしてならんのだ)。

もちろん、政策は「現実的」でなくてはなるまい。少なくとも実現可能性がなくてはならないだろう。今すぐに全原発の廃炉を求めることは、国民感情として当然だとは思うが、実際問題として難しいことも事実。だが、現有の原発の稼働年限を超えた後、必然的にエネルギー政策の転換を済ませている未来を想像したい。

現有の原発に対する監視の眼は絶対に弱めてはならない。停止中の原発に対して、経産省としては一刻も早い再起動を求めるだろうが、微に入り細を穿って危険の少なさを検証すべきである。今なお原発が「安全」であると口にするのは、それがどのような意味においてであってもナイーブに過ぎる。このとてつもなく危険な代物を使っているという畏怖心から、私たちが自由になることはもはや許されない。その上でなお、今後十数回の再起動を私たちは許容せざるをえないのではないかと思う。

40年後を想像するのは、大変難しい。現在の延長線上に思い描くことが可能なのは、おおよそ20年先がいいところではなかろうか。小さなお子さんをお持ちの方も、その子が成人し、結婚するくらいまでを考えることはあっても、その先は困難を感じまいか。40年先となると、多くの人々はすでに生きてはいない。自分自身も、愛する人も、親しい人も、自分と同世代以上がほぼこの世にいない世の中である。しかし、それをリアルに思い描きたい。

それはSFであるかもしれない。実際の40年後の世界とは違っていて当然と思うだろう。しかし、なんとなく、ぼんやりと空想するのではなく、できるだけ細かく、ディテールにこだわって想像する。人の想像力は決してあなどれない。私たちの今の想像力に限界があることは自明だが、かといって、人間の幸不幸の形自体はそれほど異なってはいないだろう。どうあるのが幸福か、SF的想像力を総動員して、クリアに、リアルに想像してみたい。

そこから逆算して、現時点で何が可能かを改めて考える。すると、拙速が慎むべきであることとともに、絶対に退けない点というのが理解できてくるはずである。自分自身の、身につまされるような恐怖や嫌悪を超えて、さらにその先に求めるべき何かが見えてくるはずである。

当然、40年後には稼働中の原発は日本にあるまい。だが、それを「当然」と思っていては別の未来(パラレルワールド)に絡め取られる。40年後までに全ての原発を廃炉にし、放射性廃棄物処理の問題に一定の筋道を付け、なおかつ、人々の圧倒的多数が文化的で豊かで幸福な生活をおくること。これを今に立脚してシミュレーションすると、解決すべき問題の多さに気が遠くなる。しかし、40年後の未来から時間を遡って考えたとき、少なくとも「気が遠くなる」感じがしないことも事実。

自分がすでに生きていない未来を考えることが大切だ。前にも書いたが、原発が「コストの安いエネルギー」であるというのは、問題を先送りしたときにはじめて言えることであって、廃棄物処理の問題、廃炉の費用等々、自分が生きている間には被らずに済む負担を全て棚上げにしている。そういった人々がこの国の上層の相当数を占めていることは、私たちのみならず、子孫にとっても大いなる不幸というべきであろう。

「天下興亡匹夫有責」(天下の興亡、匹夫に責あり)。この伝統的中国知識人のメンタリティーは、間接民主制の傘の下で、天下国家への責任感から隔てられた私たちにこそ重要ではないか。

40年後、もしかしたらギリギリ生きているかもしれない世代、今のアラフォー世代が中心になって、未来に責任を持とうとすることだ。実際に何が出来るかを思い悩み、ともすれば諦めてしまいそうになる一般人の私たちが、今に汲々とするのではなく、未来に責任を持つことが必要である。

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