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2011年5月15日 - 2011年5月21日の2件の記事

2011年5月15日 (日)

『〈不安な時代〉の精神病理』

ワイドショーのコメンテーターなどもやっておられることで、良い意味でも悪い意味でもポピュラリティを体現してしまっている香山リカさんだが、おっしゃっていることはいつも概ね穏当だ。穏当すぎて、鋭さに欠けると感じることもあったが、震災後の連載には感心することが多かった。

http://diamond.jp/category/s-kayama

特に第4回の「「かわいそうな被災者」という勝手なイメージを押しつけてはいけない」には大変共感した。私たちの内にあるステレオタイプなイメージに根ざした善意や自己満足が、被災者との間に溝を作っているという指摘はその通りだと思う。

近著『〈不安な時代〉の精神病理』(講談社現代新書、2011.4.11)では、震災直前の状況を確認することで、3・11後をどう生きるかのヒントを示そうとしている。

P1000696

第6章「日米の精神医学」を除いて、必ずしも緻密な分析があるというわけではない。しかし、私たちが震災前から漠然と感じていたこの社会の「おかしさ」について、大変わかりやすい見取り図を示してくれている。

経済学の示す(理想的な)人間モデル「ホモエコノミクス」についての認識から説き起こし、若者、親世代、高齢者それぞれの生きにくさの原因を探る。各世代それぞれの生きにくさに確固たる理由が存在することを明らかにしており、平易な言葉で複眼的思考の必要性を訴えている。ここで語られていることは、私がうまく言語化できずにいた実感に近いものだった。

アメリカにおける反精神分析(生物学的精神医学)の隆盛を語る中で、「スプリッティング」(境界性パーソナリティ、極端二分割思考)に触れ、これが市場原理主義的な思考と、私たちの生きにくさに影響していると述べる。

「この病的なメカニズムを用いている人は、対象(人物・物事・状況)には「良い側面」と「悪い側面」の両方が混在、並存していることを認識できず、目の前にある対象や心の中にある対象を「良い対象」と「悪い対象」のどちらかに分割(スプリット)して「完全によい、大好き」、「まったくダメ、大嫌い」といった極端な価値判断をしてしまう。こうやって、極端な二分割の思考ですべてを判定することで、人間関係の複雑さを回避したり、現在の問題に直面することや状況の困難さを無視しようとしたりするのである。」(174~175頁)

放射能に対する私たちの反応も、これを連想させるものだった。どのくらい安全か、どの程度危険かを判断するというのではなく、「安全」か「危険」かの二者択一を求める人が多かった。放射能を恐れること自体は必要だが、リスクがゼロでないことに耐えられない人々については、私も何度か批判的にとり上げてきた。

以上のように、おおまかな現状分析(に資するもの)として、本書は大変好ましいものだと思う。もっとも、本来は震災とは無関係に出版されるはずの原稿であったのだろう(「あとがき」の執筆は「春分の日」となっている)。本書では述べられていないが、震災を受けて加筆修正したのではないかと思われる。これは想像だが、勝間和代氏との論争を受けて、当初はいわゆる経済至上主義的な社会分析に対する香山さんなりの意見をまとめるつもりだったのかもしれない。

さて、個人的に唯一違和感を感じる点を述べておきたい。それは、人々の孤立化、砂粒化、大局的視点の消失の原因を、「大きな物語の消失」(ポストモダン)に求めていることである。一見わかりやすい解釈だが、少し考えてみる必要があるように思う。

冷戦という「大きな物語」が消失した後、グローバリズムという「さらに大きな物語」が出現したはずなのに、実際は民族という「小さな物語」に世界が分裂し、日本人の多くは「格差」によって無数の階層に分化した。これ自体は妥当性のある説明だろう。

しかし、目前の様々な生きにくさが、「大きな物語」の消失に由来するというのは、いささか単純すぎる理解というべきではなかろうか。イデオロギーによって世界を区分した冷戦期を、ともすれば豊かな(理想的な)時代であったかのようにとらえることにつながりかねない。

冷戦の崩壊によって、アメリカの覇権と市場原理主義が誕生したこと自体は明らかだ。冷戦期には可能だった「連帯」が、簡単には実現しなくなったことも間違いない。ただし、イデオロギーによる単純な色分けが不可能になり、一億総中流といった日本社会の(相対的な)均一さが崩れたことをマイナスととらえることは、逆に「単純な人間理解」の方を理想としていることにならないだろうか。

全国民に共有された「大きな物語」に与さず、個々人が小さなネットワークを形成して「小さな物語」を生きることを、私はマイナスだと思わない。もっとも、そこでは誰もが自分の頭で生き方を構想しなければならず、「自分探し」に汲々とする者も出てこざるをえない。以前は必要なかった苦労を背負い込む必要がある。ただし、「西側」と「東側」、「右」と「左」といった単純な区分こそは「スプリット」の最たるものである。また、人々の価値基準が「国」という「物語」に収斂されることによる人間性の疎外についても、戦後数十年にわたって多くの議論があったはずだ。

自分が「日本人」であることは自明であり、それによって求められる「義務」が耐えられるものである限り、私は拒否しない。また、外国の人々より、同じ日本人に対しての方が想像力を働かせやすいため、いわゆる「同胞」の幸福を私は願う。しかし、自分や自分の周囲の人々の幸福を、許される範囲内で優先させることを間違いだと思わない。

つまりは程度の問題であって、モンスターペアレントにしろ、モンスターペイジェントにしろ、彼らの非は自分や家族の幸福を優先している点ではなく、他者への想像力の圧倒的欠如にある。幸福追求に際して、周りへ配慮するという常識的なモラルが欠けていることが問題なのだ。それを許してしまう背景として、市場原理主義に基づく人間理解があり、教育や医療の受け手を「お客様」として遇さねばならないという誤った認識があるのは事実だが、ポストモダニティの弊害として片付けるべきではないと思う。

4月16日の記事(「過ち」)で、私は次のように述べた。

「日本的ポストモダニティに欠けていたのは、自らの「過ち」についての自省、「恥」に対する敏感さである。それを再び取り戻しさえすれば、日本の良好な公共概念はかなりの程度復活するはずだ。「大きな物語」は必要ない。」

一方、香山さんは本書で、「私たちはまったく予想外の「大きな物語」を生きることになった」として、つぎのように述べる。

「「何が本当に大切なことなのか」と考え始め、そのためにはまわりに心を開き、手を取り合って協力し合うこともいとわない、というよりそうするしかない、という「心境の変化」が生じ始めている。」(187頁)

「突然、よみがえったこの「大きな物語」の中で、私たちは、日本経済は、再生するに違いない。」(189頁)

「物語」が無ければ、人は世界と向き合うことも、社会を理解することもできず、生きることができない。しかし「大きな物語」は、しばしば乱暴に、力ずくで人々を飲み込もうとする。個々人の幸福は等閑視され、犠牲にすることが当然とされる。私は「大きな物語」は人を幸福にしないという立場だ(自分の頭で考えなくてもいいという怠惰さは許されるけれども)。

では、「何が本当に大切」かを考え、周囲と協力することが「大きな物語」なのだろうか。これは本来、社会的存在である人間が備えていなければならない基本的能力のはずである。そして、それは「小さな物語」において体現されるべきではないのか。

「まわりに心を開き、手を取り合って協力し合う」という「小さな物語」をゆるやかに(様々な差異を許容して)統合し、その延長線上に日本という「国」を構想するべきだろう。「修身、斉家、治国、平天下」ではないけれども、段階が重要である。個人を直接に回収しようとする「大きな物語」には、今後も抵抗する必要があるはずだ。

佐藤優氏の著書をとり上げた際、「上からのファシズム」と「下からのファシズム」について触れた。両者は似ているようで大きく異なる。それと関連して、震災後の日本に「よみがえった」動きについても、上からか下からかを見極める必要がある。

下からわき起こった動きには、千差万別なニュアンスが含まれている。精神科医である香山さんは、個々人の物語に寄り添う必要など百も承知のはず。それら雑多な物語がゆるやかに方向性を一にすることを「大きな物語」と呼んでおられるのだろう。しかし、「大きな物語」は通常上からの統治に親和的なイメージである。それに期待すること、つまりは他者依存的な態度は、日本社会の今後にとっての希望とはなるまい。

みんな幸せになりたいし

更新が滞ってしまった。個人的にバタバタしていて、まともにニュースもチェックできなかったのだけれど、この間いろいろ動きがあったようだ。

まず、浜岡原発が止まった。2~3年の期限付きだそうだが、これは評価したい。菅総理の「要請」を、法的根拠のない暴走だと批判する人もいたみたいだけれど、「命令」ではなく「要請」だった点をよく確認しておくべきだろう。総理の「要請」だから、大きな意味を持つことは事実としても、「命令」でないので法に抵触することにはならないはず。「事実上の命令」かどうかは別問題だろう。

形式上、菅は中部電力に「お願い」したことになっている。だから、中電には断る余地が残されていた。しかし、もし中電が停止要請を断った場合、事故が起こった際には中電の責任がより重くなる。政府の要請を拒絶したことが中電の「負い目」になることが明らかなのだ。

一方で、中電からしてみれば、東電の轍を踏むことは何としても避けたかったろう。すぐに「脱原発」に舵を切るという選択肢が中電に持てない状況下で、今回の「要請」がなかったなら、浜岡を動かし続けることは必然だった。浜岡を止めないことが「公益」ということにほかならなかった。だが、中電の経営側から言えば、「安全」が保証できない中で浜岡を動かし続けることは、できるなら避けたかったはず。あくまでも想像だけれど、「要請」は「渡りに舟」でもあったのではないだろうか。

実際問題として、浜岡でもし福島並の事故が起これば、日本は本当に終わりだ。それに比べれば、菅総理にとって政権維持が最大の目的であったかどうかは些末な問題とすべきだろう。浜岡の停止によって直接に影響を被る地域住民や同地の製造業以外で、今回の件を批判する人々(多くの政治家、評論家、ジャーナリスト)は、「色眼鏡」のレンズが濃すぎて、「国益」も「公益」もわからなくなっているのではないだろうか。

さて、浜岡以外にも、多くの原発が近々検査のために停止する。「再起動」を認めるのか否か、すでに現実的な問題になりつつある。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1304903496

ここで菊池誠氏の言うことは、もっともだと思う。

「最短二年程度ですべての原発を止めうるというのが現実味を帯びてきた状況下では、原発推進も反原発も脱原発も無邪気ではいられない。」

「原発推進と反原発の蜜月時代は終わった」

「推進」か「反対」か旗幟鮮明を迫るような運動の方向性は、すでにして意味を持たない。単純明快な解決策など存在しない中、誰しも「無邪気ではいられな」くなっている。原発を止めさえすれば、全てが丸く収まるわけではない。しかし、「脱原発」の趨勢はゆるがないだろう。私たちはもう3・11以前には戻れない。

新規建設だけでなく、既存の原発を全て稼働し続けることも現実的でない。一部はかなり長期にわたって稼働が認められる可能性はあるが、いずれにしろ2年ごとの再起動のたびに世論の強いプレッシャーにさらされる。原発が「安全」ではないという共通認識が出来上がってしまった今、電力会社は次々に襲うプレッシャーに耐えられるだろうか。今後万一事故が起これば、申し開きは不可能だ。

自然エネルギーを含めた、あらゆる代替案にもリスクはある。代替案のリスクが、原発のリスクより小さいかどうかは、短期的視点で見た場合にも一概に言えない。出力の安定性やコストだけでなく、自然環境や人体への影響についても、完全にリスクのない発電はない。原発のリスクは、むしろ長期的視点で考えたときにこそ顕在化する。使用済み燃料の処理方法など、問題の先送りを前提としつつ議論がなされてきた。

しかし、目下の「脱原発」の流れは、短期的な影響(福島原発事故への嫌悪)が最大の動因となっている。怖いから、嫌だから原発を止めるべきだという主張は、むしろ事故が起こる以前にこそ有効であった。以前から反原発の運動を進めてこられた方々が、聴衆の恐怖に訴えることを続けていたのには合理性がある。しかし、現在の議論はその先のステージに進んでいる。

豊富な電力を前提として、社会のシステムが作られてしまっている。かつては人力で行われていた多くの作業が、機械に取って代わられている。企業は機械化によって人件費を削減した。住宅は高層化し、エレベーターなしでの移動は難しくなった。高齢者の増加にともなう都市のバリアフリー化も、多くは電力に依存している。家族や地縁共同体の強固な結びつきがなくとも生存が可能となった背景にも、様々な機器の発達がある。

これを全て反故にすることは不可能であろう。「昔はよかった」のを事実としても、時間を戻すことはできない。「無邪気」さは、しばしば「無責任」と同義でもある(一概には言えないが、にわかエコロジストに限って電力への依存の度合いが大きい場合も見て取れる)。今や、どうやって、どれくらいの期間で「脱原発」を進めることができるか、考えなくてはならなくなった。

一部の経済学者のように、全ての社会現象を数値化してとらえることに私は反対であり、人生の機微や心のひだを一層重視する必要は感じている。だたし、トレードオフということを言うと、「人命とカネのどちらが大事なのか」という批判が飛んでくるのは納得しかねる。「カネ」の話を汚いと考えるのは個人の自由であり、私自身何もかもを経済合理性で考える弊害を強く感じているが、国民全てに「最低限の文化的生活」を営ませるに十分な経済力を保持せねばなるまい。「カネが大事」なのも事実であり、「カネ」はしばしば「人命」に直結する。

「脱原発」の趨勢が現実的な方策を手に入れる必要が出てきており、原発に関連するあらゆる問題をイデオロギーで語ることは、もはや不可能になっている。おおよその方向性について「国民的議論」が必要だということは、あちこちで指摘されているが、個人が引き受けるリスクとベネフィットについて、皆が想像力を駆使する必要もあろう。

何を犠牲にし、何は絶対に譲れないか、自分自身の生活に則して考える段階にきている。その際に、自分や自分の家族といった最小単位のリスクとベネフィットをシミュレーションするだけでは不足だ。勤務先、地域社会、自治体、国におけるそれぞれのリスク・ベネフィットを考慮した上で、個人の在り方を考えねばなるまい。

ただし、過度な無理を続けることはできない。肥大し続ける欲望を制御することは大切だが、幸福はむしろ追求し続けるべきだ。どこまで「妥協」できるか、どうすれば「納得」できるか、個別的具体的に想像してみよう。もちろん、現在の時点での判断に固執することは難しい。今の想像を、状況の変動にともなって臨機応変に変更する必要も生じるはずだ。判断力とともに、適応力が求められる。

みんな幸せになりたい。そんな当たり前のことを無視しては議論の進展はない。だが、何をもって「幸せ」とするか、どうやって「幸せ」を実現するか、個人レベルのテーマもまた電力政策と離れては存在し得ないことを再確認したい。

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