« 2011年5月1日 - 2011年5月7日 | トップページ | 2011年5月15日 - 2011年5月21日 »

2011年5月8日 - 2011年5月14日の1件の記事

2011年5月 8日 (日)

ディベートからネゴシエーションへ

以前から、学校の授業でディベートが推奨されることが多い。ご存じの方は多いと思うが、おおよその中身は次のようなものである。

  1. 何かしらテーマを設定する。多くは、受講生になじみのある社会問題が採り上げられる(男女共同参画の是非、脳死を死と認めるか、等々)。
  2. 受講生(クラス)をグループ分けし、当該テーマについて調査する。
  3. グループごとに「賛成」か「反対」かの統一見解をまとめる。
  4. 教員の司会のもとで、「賛成派」と「反対派」が意見をたたかわせる。
  5. 相手側の意見の矛盾点を突き、自派の論理的整合性を示す。
  6. 論破した方が、とりあえず「勝ち」ということになる。
  7. ギャラリーの多数決によって勝敗を決める場合もある。

プレゼンテーションの技術だとか、論理的思考だとか、ディベートによって養われる能力というのは確かにあって、教育法の一つとしては有効である。また、外国語で行われるディベートは、スピーチコンテストなどとともに、言語運用能力を鍛える意味でもすぐれた効果を発揮する。それは事実として認められよう。

ただし、ディベートで身につけられる能力は、「本音と建て前」を判別できる「大人」になって、はじめて有益なものである。たとえばメーカーの営業職が、顧客に自社製品の長所を納得させる際には、営業担当者自身が自社製品の素晴らしさに心酔してしまっていてはいけない。製品の「すごいところ」と「普通なところ」と「イマイチなところ」をわかった上で、「すごいところ」を強調し、顧客に納得させるべきである。

もしも営業担当者が自社製品に心酔してしまっていたら、顧客のネガティブな反応に対して、内心腹を立てることもあろう。「なんでこの人は素晴らしさがわからないんだ!」「バカなんじゃないか?」ということになる。営業としては最悪だ。あくまでも、リスクを自覚しつつ、ベネフィットの方が上回っているという点を主張するというのが、ディベート術のキモである。だから、ディベートには本来「信仰」や「信念」の入り込む余地はないか、あっても小さいと考えておくべきなのだ。付け込まれる可能性を予測して、自らが「正しい」と考える内容の瑕疵についても自覚的でなければならない。

こういったことを突き詰めて行くと、ディベートにおける勝者が常に「正しい」(妥当)ということにはならないということになる。しかし、近代的社会制度にはディベートに対する「信仰」があって、ディベートにおける勝者の意見が採用されやすいことは事実である。その背景には、意見をたたかわせる中で矛盾点を無くして行けば、最終的に「真理」に到達できるという認識があるのかもしれない。

論拠や客観的事実を提示し、対立者を論破することによって、賛同者を獲得する。議会制民主主義が広く受け入れられ、民主的な多数決が良しとされるのは、基本的にディベート信仰に基づくと言ってよい。それ自体に異議申し立てをするつもりはないが、私はディベート術がしばしば見落としかねない点について、意識的でありたいと考えている。

まず、議論が「真理」(論理的無矛盾性)を目指すのであれば、最初から「賛成」「反対」に分け、旗幟鮮明にすること自体には大きな意味がないことになる。事前調査の段階で得られた認識をどうやってプレゼンするかは、技術論にすぎない。議論の中で認識が深まり、当初の意見が変わっていくこそが期待される。自説に固執することは「真理」への到達にとって障碍でしかない。

両派の統一見解が、暫定的な「真理」ということになる。現状で最も論理的破綻が少なく、説得的な見解を、両派の共同作業で形成することがディベートの(本来の)目的であり、勝敗は実は重要でない。しかし、勝負が決した時点で、往々にしてディベートは終了する。

「信仰」はしばしば「固定観念」と同義であり、問題外とすべきだが、「信念」も「真理」とは遠いものである。思想信条の自由は認めねばならないが、客観的に信ずるに足りない「信念」というのもある。「信念」を腑分けした時に、「好き嫌い」や主観的な「善悪」が、かなりの割合含まれていることがある。

ここで重要なのは、「好き嫌い」と「善悪」と「真理」がそれぞれ別個に存在しているという事実である。ディベートの延長線上に求められるべきは(暫定的な)「真理」(論理的無矛盾性)であるが、「好悪」(感情的側面)と「善悪」(倫理的側面)を無視しては、社会的な決定事項は何一つ求められない。

人が決定を下すとき、多くの場合「好悪」に基づいている。しかし、それが倫理的にどうなのかを判断した上でなければ実行に移せない(それが「良識」である)。ほとんどの場合は、ここで法的な可否を参照すれば事足りるのだが、それでも解決しない場合がある。リスクを主張する者と、ベネフィットを主張する者が対立し、両者ともに賛同者を得ている時がそれに相当する。

学校の授業で行われるディベートでは、リスク対ベネフィットがほぼ釣り合うようなテーマが選ばれる。だから、個々人の「感情的側面」や「倫理的側面」は最初から棚上げにされている場合が多い。参加者が「賛成派」と「反対派」のどちらに参与しようと、それによって問題を抱え込むことがないように配慮されている。ここで体験され、身につけられる「ディベート思考」(「論理的思考」の初歩)は、上記の通り最初から論破が目的とされ、暫定的な「真理」への到達が目指されていない。そして、「感情」と「倫理」に対する配慮が軽視される傾向がある。つまり、「身につまされる」ようなエッセンスが排除されている。

学校ディベートのような「知的遊戯」であれば問題はないが、リアル社会で繰り広げられる議論では、「感情」、「倫理」、「論理」の三者に配慮した上でなければ決断は下せず、「正しい」(妥当)ということは言えない。また、三者それぞれをどの程度配慮するかも、ケースバイケースである。逆に言うと、感情や倫理によって、「真理」の「正しさ」(妥当性)は常に試されている。

自身の「正しさ」に固執することが問題解決にプラスにならないことは明らかであって、反対者を抹殺する方向へ知的リソースを使うのではなく、自派に有利な(自派寄りの)統一見解を相手との間に探ることが重要だ。「術」として実地に必要とされているのは、ディベート術ではなく、ネゴシエーション術ではなかろうか。

もちろん、倫理的な検討を十分に経た後のネゴシエートでなければ意味はない。しかし、意見対立を解消する際に「ディベート思考」は役に立たず、しばしば遺恨を招く。勝者の論理によって表の歴史が作られる一方、ルサンチマンを抱える裏の歴史も消えることなく、常に表への返り咲きをねらい続ける。十分なネゴシエーションがなされなければ、人間関係のステージが上がることはない。

Win-Winの関係を空想的だと考える人々は、自派の願望の全面的成就を狙うという妄想を抱いているか、成長や発展の図式で交渉をとらえている。Win-Winの関係においては、「三方一両損」で「丸く収め」ることによって、結果的に得られる利益を重視している。自派にとって優先順位の高い要望を実現させる一方、順位の低い望みから段階的に捨てることが求められる。だから、最低限求められることとして、感情的側面も含めて自派の要望を精査し、優先順位を明確にした上で、納得できるラインを設定しておかねばならない。こういった発想自体が、「ディベート思考」には欠けていることが多い。

絶対にゆずれない部分(許せるライン)にこだわるのは必要だが、交渉において満額回答を得ることは基本的にあり得ない。最優先する要望以外は捨てざるをえないことの方が、むしろ普通である。だから、譲歩すること、妥協することを堕落と考えるのは大きな誤りというべきだろう。

「正しさ」(妥当性)は、「落としどころ」の異名であることが多い。それは薄汚れて見え、新奇さの少ないものである。しかし、妥協の産物でなければ、「最大多数の最大幸福」を保証することができないことを覚えておく必要があろう。

最後に、直接関係ないけど……「交渉」つながりで、お勧め漫画。

P1000280

真刈信二・赤名修『勇午―洞爺湖サミット編』1~2(講談社)

〔追記〕なぜ急にこんなことを書いたかといえば、これまで復興や原発問題に関して「議論の場を成り立たせること」の必要性を幾度か述べたが、そこでいう「議論」が、一般的にイメージされる「ディベート」的なものではないということを示したかったからである。せっかく議論のテーブルに着いても、相手を論破することを目的としていては、生産的な解決方法は遠ざかるばかりである。「譲れない点」は保持しつつも、「交渉」(ネゴシエーション)こそが重要であることを強調していく必要があろう。

« 2011年5月1日 - 2011年5月7日 | トップページ | 2011年5月15日 - 2011年5月21日 »