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2011年5月1日 - 2011年5月7日の2件の記事

2011年5月 3日 (火)

憲法記念日によせて

私は原則的に「護憲派」である。世代的には少数派かもしれないが、この立場だけは変わらない。かつては、恩師に戦後民主主義者や穏健的コミュニストが多かったこともあり、「護憲」の立場をアプリオリに受け入れ、そこに疑問を差し挟むことはなかった。現在は彼らの思考の枠組みに限界を感じることも多くなったが、それでも「護憲派」であることは揺らいでいない。

憲法に関して議論すること自体は否定しないし(内容を読んで、語り合うことはむしろ好ましい)、その「神聖さ」を崇めるというのではない。日本国憲法が最後の砦として果たす役割を「頼もしい」と感じているのである。

「現状に合わない」という意見にしても、私は現状の微妙な在り方(矛盾すれすれの「憲法解釈」)こそを肯定的に考えている。仮に、「国体」保存を意図した日本とGHQの苦肉の策であったにせよ、「象徴」としての天皇を私は素晴らしいと感じている。近頃、しばしば天皇を「有り難い」とすら感じるのは、「象徴」であるからこそと言える(今上天皇のパーソナリティによるところも多分にあるとは思うが)。震災後のビデオメッセージや被災地訪問の様子を見て、日本にはやはり「象徴」が必要だと実感したものだ。

「軍隊」でない(ことになっている)自衛隊というのも理想的だ。事実上の軍隊であるかどうかということと、「日本軍」として規定されていることとは別であって、災害時に貢献する自衛隊員の姿に私が敬意を持ちうる最大の理由は、彼らが「軍隊」と規定されない何者かであることによる。アメリカの意向に翻弄され、ヌエ的な存在として成立したとはいえ、現状は理想的な在り方だと感じている。

そして何よりも、私は「改憲派」に反対なのだ。「改憲」そのものより、「改憲派」の意図を懐疑的に見ている。彼らがどういった日本を目指すのか、そのビジョン(実は、あまり明確に示された例がないように思うが)に信用がおけないと言った方がいいかもしれない。

さて、今日は憲法記念日である。震災の影響か、今年の憲法論議は活発でないようだが、一つ気になる記事を読んだ(「非常事態条項」を盛り込む改憲を企む自民党と鳩山由紀夫)。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1178.html

「要するに鳩山由紀夫という男は、単に原発推進派であるのみならず、震災を利用して憲法に基本的人権を制限する条項を盛り込む改悪をしようとたくらむ、どうしようもない政治家であることがわかる。」

あまり「火事場泥棒」的なことをしてほしくないものだ。震災や原発事故に、それこそ「場当たり的」に対応するばかりではならず、政治家に長期的展望が求められていることは事実だろう。それにしても、この局面で「改憲」の動きを強めることの延長線上に、彼らは何を見ているのだろうか。

沖縄米軍基地問題にせよ、「改憲」にせよ、一部の人々の目に震災は千載一遇のチャンスと映るらしい。しかし、どちらも綿密な議論と意見のすりあわせを端折ることはできまい。拙速は遺恨を生む。それをあえて行おうというのは、自分たちの旗色の悪さを自覚していることの証左であろう。パフォーマンスにしても、筋が悪い。

3・11後、これまで先延ばしにしてきた諸問題が一気に噴出した。日本の社会システムに根本的な転換が求められていることは間違いない。だが、それは「改憲」に直結する筋合いのものではない。むしろ「改憲」論議それ自体が旧い枠組みに属す。日本社会の行き詰まりは、現行憲法によってもたらされたわけではない。逆に、「改憲」論を主導する概念こそが、行き詰まりを助長してきたと考えられよう。それは戦後政治史における負の側面(原発政策を含む)と軌を一にしている。そして、現行憲法こそが、その際限ない伸張を阻んできたと見るべきである。

鳩山氏にしろ、小沢氏にしろ、私は苦手なタイプではあるのだが、にもかかわらず政権交代直後の方向性に一瞬の期待を抱いた自分を恥じる。実質的にアメリカの属国でありつづけた日本の国際関係を転換しようとする意図が、当時確かに垣間見えたように思った。東アジア共同体にせよ、国会議員を大量に率いての北京詣でにせよ、鳩山小沢体制が米中を天秤にかける素振りを打ち出したことを、私は密かに評価した。アメリカ一辺倒の外交政策からの転換を目指すべきだというのは、かねてからの持論でもあったから。

当然、私が中国屋であることとも関係がある。中国共産党政権の問題点は枚挙にいとまがないにせよ、それでも日中関係の相対的安定が重要だとする立場は一貫している。しかし、結果的に政府レベルの接近は失敗し、民間レベルの交際の拡大と深化以外に道がないことが明らかになってしまった(尖閣問題をはじめとする一連の流れの背景に、アメリカの意図を想像してしまうが、「陰謀論」はやめておこう)。

彼らの当事者意識の欠如を、私たちはもっと批判すべきだろう。彼らに文字通り「一兵卒」としての覚悟があるならば、現在のような立ち回り方はありえない。政権からパージされた彼らだからこそ、今果たすべき役割がある。それは「ポスト菅」を狙うことでも、現政権の足下をすくうことでも、ましてや「火事場泥棒」でもない。機能不全に陥りつつある現政権(実際ひどい体たらくではある)の側面援護が第一、それが無理なら、地べたを這い回って動くべきではないのか。

本人たちは、キャスティングボードを握っているつもりかもしれないが、それは幻想にすぎない。今、何も為しえなかったなら、彼らに次はありえないのだ。

2011年5月 2日 (月)

色眼鏡を外す

小佐古敏荘氏の内閣官房参与辞任会見が、あちこちで話題になっている。昨日、実家の父と電話したときもこの話になったが、ようするに、「やっぱり国は嘘を言ってたんじゃないか」というような反応だった。

実家は今『朝日新聞』講読中(販売店の顔を立てて、半年ごとに『朝日』と『読売』をとっている)で、父の情報ソースも『朝日』だった。asahi.comでは、次のように報道されている。

http://www.asahi.com/politics/update/0429/TKY201104290314.html

ここに、「会見では特に、小学校などの校庭利用で文部科学省が採用した放射線の年間被曝(ひばく)量20ミリシーベルトという屋外活動制限基準を強く批判」とあるが、ちょっと待ってほしい。

NHK科学文化部のブログに、全文が掲載されている。

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html

文中の下線は原文(会見時の配付資料)ママだという。『朝日』が「特に」という表現をしているのは、この下線に由来するのだろう。しかし、小佐古氏は放射線の健康被害(危険性)を強調しているわけではない。それは、次の部分からも明らかだろう。

「文部科学省においても、放射線規制室および放射線審議会における判断と指示には法手順を軽視しているのではと思わせるものがあります。例えば、放射線業務従事者の緊急時被ばくの「限度」ですが、この件は既に放射線審議会で国際放射線防護委員会(ICRP)2007年勧告の国内法令取り入れの議論が、数年間にわたり行われ、審議終了事項として本年1月末に「放射線審議会基本部会中間報告書」として取りまとめられ、500mSvあるいは1Svとすることが勧告されています。法の手順としては、この件につき見解を求められれば、そう答えるべきであるが、立地指針等にしか現れない40-50年前の考え方に基づく、250mSvの数値使用が妥当かとの経済産業大臣、文部科学大臣等の諮問に対する放射線審議会の答申として、「それで妥当」としている。ところが、福島現地での厳しい状況を反映して、今になり500mSvを限度へとの、再引き上げの議論も始まっている状況である。まさに「モグラたたき」的、場当たり的な政策決定のプロセスで官邸と行政機関がとっているように見える。放射線審議会での決定事項をふまえないこの行政上の手続き無視は、根本からただす必要があります。」

現場作業員の緊急時被曝限度を250mSvとしたことの根拠を疑い、今になって500mSvへと引き上げることを「場当たり的」と言っている。当初から500mSvとしておくべきだったという趣旨である。

つまり、小佐古氏は法律的根拠の曖昧さを批判しているのであって、必ずしも、政府が放射線の危険性を低く見積もっていることについての抗議ではなさそうなのだ。

小学校等の校庭利用の基準については、「これらの学校では、通常の授業を行おうとしているわけで、その状態は、通常の放射線防護基準に近いもの(年間1mSv,特殊な例でも年間5mSv)で運用すべきで、警戒期ではあるにしても、緊急時(2,3日あるいはせいぜい1,2週間くらい)に運用すべき数値をこの時期に使用するのは、全くの間違い」とするが、そのことを即「政府が嘘をついていた」という反応につなげるのが、私には解せない。新聞報道だけを読めば、そういった解釈が出てくることも仕方ないとは思うのだが。

政府の対応は確かによろしくない。文科大臣の予算委員会における答弁も、何も言っていないに等しかった。1~20mSv/yの範囲内で、どこに設定するかは政治判断に属し、安全側に設定することの妥当性は強調されてしかるべきであろう。子供については一層の注意を要するという認識を持って、四角四面な対応ではなく、「ヒューマニズム」に基づいた施策が必要である。郡山市などの独自対応に対して、文科省が言外に「余計なことをした」というような反応をしたのは、言語道断というべきである。

「20mSvであれば大丈夫」というスタンスではなく、「できる限り減らす」という方向性を前面に押し出さない限り、住民が納得するはずはない。この点で、政府の対応は非常にまずい。

しかし、小佐古会見に対する多くの反応が、「政府の嘘」を曝いたという理解に傾いている。NHK科学文化部ブログの上記ページには、多くのコメントが寄せられている。一般視聴者の方の意見だが、いくつか引用させてもらおう。

「私も、東北・関東の子供たち、そして、妊産婦は少なくとも西日本に移住すべきだと思います。家族の絆も大切ですが、子供の被爆の健康被害は、統計的にも証明されています。(中略)私は、首都圏に住んでいます。毎日、マスクもせず、無邪気に遊んでいる子供たちをみると可愛そうで仕方ありません。」

「この件、繰り返しTVで放送してください。政府や東電の「ただちに健康に影響はない」を信用していたり、深刻さに気づいていない人が多すぎます。」

多くの掲示板やコメント欄に見られる意見である。この現状認識が正確か否かは措くとして、少なくとも小佐古会見全文に対するコメントとしては、ピントがずれている。

NHKが全文を掲載したことを「勇気ある行動」として、これに感謝する意見は多いが、むしろ全文をあげたことで、新聞が報道しなかった部分が明らかになった。小佐古氏が問題にしているのは、法的根拠、一貫性である。1.原子力災害における危機管理手順に則して(前提)、2.その上で国民の健康確保を第一に考えるべきだ(目的)、と言っている。むしろ1(前提)こそが重要なのであり、それを読み飛ばして2(目的)だけをとり上げるのは意味がない。

NHKブログのコメントにも、「全文をよく読まれたのでしょうか?都合のいい部分だけをつまみ食いせず、何を問題としているのか、隅々まで精読された方がよいのではないでしょうか」といった意見もある。本来なら、こうした反応がもっと出てよいはずだが、きわめて少数派であるようだ。

「小佐古会見の模様を再放送せよ」といったコメントも多いが、それならば先日放送された「双方向解説」の方が有益ではないだろうか。解説委員諸氏が、確かな認識に則して現状を分析し合い、将来的な見通しを示しており、NHKおそるべしの感を強くした。理想的な「朝生」といった感じ。

なお、佐藤優氏が「眼光紙背」にて、小佐古発言をとり上げているが、全文を参照せず、新聞報道で触れられた部分のみに注目しているのは、いささか残念だった。

http://news.livedoor.com/article/detail/5527556/

前にも触れたことだが、近頃「良心」や「善意」があまりに強調されることに、私は危機感を持っている。当然、専門家には倫理が必要とされるし、優れた知見を持ち、解決能力を有する人々に、「良心」に則して事に当たっていただきたいと切に願ってはいる。しかし、「善意」や「良心」を有していることイコール問題解決能力ではない。

「善意」に基づいた行動が、常に良い結果を生むとは限らないし、しばしば「善意」と「善意」が対立することもありうる。独りよがりな「善意」は、時として好ましくない結果を導く。長期的展望に基づいて、結果を見据えた「善意」でなければ、それは自己満足の域を脱していないことになる。小佐古氏の「善意」「良心」を称えるだけでは意味がない。非専門家の私たちも当事者として、提言の内容を精査し、自分の頭で考える必要がある。

考える際に、「国は嘘をついている」ということを大前提にしてしまえば、あらゆる情報をその延長線上でしか理解できなくなる。もちろん、政府の対応のまずさは明らかで、情報の出し方も下手だ。しかし、「ただちに健康に影響はない」が嘘かどうかは別問題である。「確定的影響」と「確率的影響」の違いを、多くの人が口を酸っぱくして説明しても、なかなか浸透しないのは、すでに多くの国民が、色眼鏡をかけて情報に接していることを意味している

新聞、雑誌、民放テレビ局の報道も、色眼鏡越しに見たときに都合がいいような内容に変わりつつある。あるいは、記者というのは率先して色眼鏡をかけるのを常態としているのかもしれない。

国民に色眼鏡をかけさせてしまったこと自体は、政府の失態に由来する。だが、何としてでも多くの方々に色眼鏡を外していただかないことには、議論の場が成り立たない。今後の日本をどうするか、実現可能な具体的方向性を、オールジャパンで議論し始める時期に来ている。

人々の色眼鏡外しのため、無償で精力的に取り組む科学者の方々は多数いらっしゃるが、しばしば「御用学者」の謗りを受けてしまう。つまりは、政府発表を全否定し、危険を強調しない限りは、「良心」や「善意」に欠けるということになってしまうのである。逆に言えば、危機の強調こそが「良心」の表れと見なされかねず、本末転倒というべきだろう。そして、怪しげな人々(カルト、似非科学、陰謀論者)が策動を始めている。色眼鏡を透かして見たとき、見るからに怪しげな連中が「良心」の塊に見えてくることもある。

これはすでに、文系の出番だろう。責任感を持った自然科学者の方々は、早くから行動されてきた。彼らの有用なメッセージが浸透しづらい状況を改善し、生産的な議論の場を作るのは、人文科学の役割である。哲学、文学、宗教学の研究者が力を発揮すべき段階に来ている。

〔追記〕文中で触れたNHKの「双方向解説」(日本復興の道筋は)は、NHKオンデマンドで見ることができるようだ(購入期限:5月14日、210円)。

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028028SC000/index.html

〔追記2〕誤解の無いように言っておくが、私は段階的に原発を縮小(あるいは廃止)すべきだと考えている。ただし、およそ20年程度のスパンで、どのように縮小(あるいは全廃)するのか、具体的な方法を模索する必要を強く訴えたい。それまでに、浜岡を初めとする「危険箇所」に対しては、徹底的な安全確保、あるいは選択的停止の措置が求められるのは言うまでもない。

〔追記3〕「政府が嘘を…」について、福島の事故以前に「絶対に安全」と言っていたことは確かに「嘘」と言うべきだろう。しかし、ここで話題にしているのは、あくまでも事故後の発表である。事故対応のまずさは確かにあるし、なるべく安全だと思わせるような言い回しが疑念をかき立てているのは事実だが、発表内容そのものに「嘘」があったかどうかは別問題だと私は思っている。政府が「オオカミ少年」になってしまった責めは、彼らにあるに違いないけれど。

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