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2011年4月24日 - 2011年4月30日の2件の記事

2011年4月30日 (土)

ダブルスタンダードのすすめ(2)

発売前から、Amazonウィジェットのおすすめに載せていた、佐藤優『3.11クライシス!』(マガジンハウス、2011)。かなり過激な本だが、私は納得して読んだ。

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本書は、佐藤氏が3月11日以降4月初旬までに各媒体に発表した文章を集めたものであり、重複する箇所も多い。しかし、逆に氏の訴えを繰り返し読むうちに、はじめから明確な論点が一層明確になって、読者に迫ってくる。

ポイントは、次の数点にまとめられよう。

  1. 戦後の「合理主義」「生命至上主義」「個人主義」からの脱却。
  2. 「菅直人」という固有名詞に惑わされず、民主的手続きによって選ばれた内閣総理大臣を「翼賛」する必要。
  3. 日本国の崩壊を防ぐことを最優先し、そのため超法規的措置をとる。
  4. 日本人の「ををしさ」を信じる。

「人間の命は地球より重い」という「生命至上主義」における限界が明らかになり、自衛官、警察官、消防士、外交官といった、もともと「無限責任」(自らの生命より任務遂行が優先される)を自覚せざるをえない人々以外にも、任務のために健康や生命を犠牲にする覚悟が求められるようになった。

まず意識されるのは、東電や協力会社の現場作業員である。ここでは、いわば「特攻精神」が暗に要求されており、その「ををしさ」(勇気)を賞賛するとともに、国民も「個人主義」を克服し、日本国家の保存のため尽くすべきとするのである。

また、「菅直人」という個人に対する疑念や批判を当面停止し、首相のもとに権限を集約して事に当たるべきとする。数ヶ月間「下からのファシズム=翼賛」を認め、首相に最適な判断ができる環境を用意する。一方で、総大将は本部から動いてはならない。

「情勢論」のレベルで他者への批判を行うのは、後回しにすべきで、現在は「存在論」レベルでの議論が求められる。

「政争や他者のあら探しにエネルギーを費やしている余裕はわれわれにない。いまは日本国家存亡の危機を乗り切るために団結しなくてはならない。お互いに寛容になろう。」(92頁)

「大和心のををしさ」や「特攻精神」を称揚し、「翼賛体制」を要求し、国家総動員を容認する。表面的に見るならば、きわめて過激な提言であることは間違いない。読者のほとんどが第二次大戦中の国家体制への逆行を連想し、拒否反応を示すであろうことは明らかで、佐藤氏もそれを自覚している。

「3・11クライシスを克服するために、われわれ日本人は自分の頭で考えなくてはならない。それだから、あえて私は、「翼賛」「大和魂」「ファシズム」「超法規的措置」など、マスメディアや論壇で強い忌避反応をもたらす言葉を用いた。こういう言葉を用いれば、読者が「さてどう考えるべきか」といったん立ち止まり、自分の頭で考えることを余儀なくされるからだ。」(6頁)

「われわれは祖先から、このすばらしい日本を引き継いだ。われわれは子孫にこの日本を引き継いでいく責務がある。ここで「なぜ」という質問は意味をもたない。「そうなっているから、そうするのだ」というのが回答だ。もっとも重要な問題は、常に理屈を超えた位相に存在するのである。」(7頁)

ほんの2ヶ月前であれば、一顧だにせず否定できたはずの言葉が、しごく真っ当な提言として力を持っているのを私は認める。佐藤氏の提言を頭から否定すべきではない。むしろ、氏の言葉を一度咀嚼してみるところからしか本質的な議論は始まるまい。

そもそも、佐藤氏本人が、愛国者ではあっても、偏狭な拝外主義者ではない。これらの提言自体が、ともすれば「軍国主義的」と見なされかねないが、ここには独善的・排外的なエッセンスがみじんも紛れ込んではいない。氏の提言に反射的な忌避感を抱いたなら、その感覚がどこから来ているのか、自らの脳裏を探ってみる必要があろう。

本書でも触れられているように、本書の提言が字面において「近代の超克」論と近いことは事実である。しかし、侵略のイデオローグとされた京都学派や日本浪漫派の言葉を、そのまま是認するものとして本書を読むのは、私は妥当性を欠くと考える。

逆に見ると、京都学派の議論についても、それを私たちが現在のコンテクストに適用すること自体は責められるべきものではない。彼らの問題点は、その哲学的意味における不正確さにはなく、当時の日本の対外拡張主義を前提にして提示され、その正当性を証明する理論として(結果的に)作用してしまった点にある。

3・11以降、原発事故を経て、私たちを取り巻く現実は変化した。実際問題として発想の転換が求められている。一方で、元来の思考の枠組み、社会制度への回帰を促す強い力が働いている。それは主として、マスメディアや官僚をはじめとする既存の利権と親和的な勢力に牽引されている。だが、彼らの主導する延長線上に、幸福な将来を予想することはできない。

状況に応じて、判断基準を変化させることを是とすべきである。終始一貫した思想こそを信頼に足ると考えるのは不可能である。コンテクストが変化したなら、「正しさ」もまた様相を変えてしかるべきであろう。「合理主義」「生命至上主義」「個人主義」の価値を認めつつも、それが唯一無二の「真理」であると考えることはできない。期間限定で「超法規的措置」を認めることを、私たちは躊躇すべきではなかった。傍目には「ダブルスタンダード」と見える態度を、私たちは排除すべきではない。

逆に言えば、「根」が揺らがず、ぶれないことが、変化に対応する条件である。根底には、長いスパンでの日本社会の相対的安定と、国民大多数の幸福を希求するという動機がなければなるまい。それを踏み外して、短期的自己満足を目標として想定することは、厳に慎まねばなるまい。

4月23日の記事で、「「同じ」でいることの延長線上に、逆説的ではあるが社会の変革がありうるかもしれない」と述べた。ここで「同じ」と言ったのは、思考の枠組みや判断基準を変えないことではない。反対に、柔軟かつ理性的に変化することによって、はじめて自分や身の回りの人々の幸福、本当に大切なものを守ることが可能になるのではないかと考えている。

そのことと関連して、佐藤氏の提言について一つだけ感じる違和感について触れておきたい。氏の言う「下からのファシズム」とは、いわば国民精神のゆるやかな統合という意味で理解すべきである。意図的に「翼賛」「ファシズム」「大和魂」といった言葉を用いたことにより、氏の意図を外れて「強制」のニュアンスが一人歩きしてしまう危惧を持つ。

短期的自己満足を廃し、最低限の利他的な心構えを持ち、日本という国の存続を願うという3点が、国民の共通認識となりさえすれば、佐藤氏の提言の大半は必然的に実現する。国家という「大きな物語」に直接回収される必要はないのであって、身近な、小集団における長期的な幸福を優先したままで、国民精神のゆるやかな統合は可能なはずだ。

ポイントは、可能な限り多くの国民が、自分なりの長期的展望を持つということである。それが、これからの日本社会を生きる上で必要な「根」となる。それは誰か偉い人が与えてくれるものではない。個々人によって思考能力にも生活状況にも違いはあるが、数年先を見据えて現在を判断する癖をつけるべきだろう。権力者や指導者によって行動基準が指示され、強制されたなら、それは「上からのファシズム」となる。

現存の政治家や権威を疑う一方で、カリスマ的指導者を待望する心理が、多くの日本人に共有されている。気持ちは分からないではないが、それが危険なものであることは言うまでもない。今、指導者を支える(翼賛する)必要があるのは、あくまでも目前の危機を脱するためであり、期間限定である。自ら思考する労を省くために指導者を頼るべきではない。

一方、佐藤氏の言う「下からのファシズム」、国民精神のゆるやかな統合が実現すれば、目前の危機を乗り越えた後も、行き詰まる日本社会に希望が出てくる。当然、「ゆるやかな統合」において、細部の違いは歓迎すべきことであり、画一的な価値基準が求められるわけではない。長期的な幸福のために、現実的で生産的な議論を可能にする条件が必要とされているのである。

短期的自己満足、責任回避のための「ダブルスタンダード」は批判されてしかるべきだが、長期的展望に基づき、良好な公共概念に根ざした「ダブルスタンダード」は、柔軟さの現れである。他者に対しては、そのいずれかを見極める目を養うと同時に、自分自身の思考の硬直化を避けるべく、日々自省すること。それが今後のサヴァイバル術の基本となろう。

2011年4月25日 (月)

「僕僕先生」最新作

最新作『先生の隠しごと』。寝る前に読み始めたら、止まらなくなって明け方まで……。おかげで今日は猛烈に眠い。

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作者の仁木英之さんは、震災直後にブログで声明を出されて、「自分の最新作を買うより義援金を!」と訴えた。今では「自粛ムードはよくない」とか、「物を買って経済回すべき」というような主張がコンセンサスを得てきて、仁木さんのアピールに違和感を持つ人もいるかもしれない。

でも、地震と津波の被害が報じられてすぐのことだったから、説得力はあった。それに、「僕僕先生」シリーズの読者の大半は、私みたいなアラフォーじゃなくて、10代~20代が中心だ。「お小遣いを震災地に」っていう意味も大きかったのだと思う。そして、事件に乗じて本を売るっていう売文家業にありがちなのと真逆な反応が、ピュアで一途で愛らしい主人公と重なるようで、とても好感が持てた。

で、「俺はアラフォーだし、義援金とかと別に本買えちゃうし」ってわけで購入。最初に書いたとおり、読み始めたら止まらなくなった。

このシリーズ、巻を進むごとにスケールが増して、ストーリー構成が明らかに上達というか、魅力的になってくる。実を言うと、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した『僕僕先生』について、個人的には「中の上」止まりだった。遠出をした際に駅ビルの本屋で何気なく手にとって、旅のお供にしたのだけれど、まぁまぁ楽しめたっていう程度だった。それが第2巻『薄妃の恋』、第3作『胡蝶の失くし物』、第4作『さびしい女神』と進むにつれて、なんだかえらいことになってきた。

それで最新作だけれど、ネタバレは避けて印象だけ言うと、中華人民共和国の歴史や社会に関心がある人は、特に楽しめるんじゃないだろうか。もちろん、物語の舞台は唐代だし、今作の最後には実在の事件との関わりが触れられていて、現代中国のイメージは完全にぼかされている。

ただ、20世紀後半の中国をふり返り、そこで醸された問題群が現在の中国社会にも大きな影を落としていることを思うとき、この本にはそれらの本質がうまい具合に凝縮しているように思う。そして、主要登場人物たち(王弁、僕僕、劉欣、薄妃ら)の社会との向かい合い方が、私たちが「異文化」や「他者」を理解しようとするときの正攻法を提示してくれているような気がする。これぞファンタジーの醍醐味って感じだ。

とびきりキュートで、基本的にゆるーい雰囲気の中、激動の中国が見事に寓話化されていて、いやぁ関心した。もっとも、私の勝手な読みだから、全然的外れって可能性も当然あるわけだけど。

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