« 2011年4月10日 - 2011年4月16日 | トップページ | 2011年4月24日 - 2011年4月30日 »

2011年4月17日 - 2011年4月23日の2件の記事

2011年4月23日 (土)

「同じ」でいること

3・11から最近までに、2つの現状認識が出てきている。1つは「私たちは以前と同じではいられない」というもの。もう1つは「私たちは変われないし、変わるべきでもない」というものだ。

当然、この両極の間には無数の立場がありうるし、そもそも今の時点でどちらが正確かを言うのは、時期尚早というものだろう。ただし、両者とも理屈ではなくて実感から出てきた認識であり、現状をどう認識するかによって、今後の動きも変わってくるはずである。

たとえば、文化批評について。小説や漫画やアニメや映画等々、多くの作品が震災後に魅力を減じる結果になった。退屈で平凡な現実世界を前提として、日常に刺激(ハラハラやドキドキ)を与えることに主眼がおかれた作品は、「つまらなく」感じられる。それは、現実の重さに比して「所詮作り物」だということもあろうが、先月以来さんざん「ハラハラ、ドキドキ」してきた私たちが、刺激に疲れていることとも関係がある。

フィクションを「陳腐」に感じてしまうこと、これまで嫌気すら感じていた相対的安定が、逆に貴重なものに感じられること、生命をもてあそぶような表現が不謹慎に思われること。これらは私たちの皮膚感覚が確かに告げていることだ。

また、恋や愛を語ること、お気軽でお洒落で可愛らしいラブストーリーにウキウキすることの軽薄さに、多くの人が気づいてしまった。生暖かく心地よい夢から醒めて、「俺、何やってたんだろう」というような自己嫌悪を感じている。

今後の生活への不安もある。「日本やばいんじゃないか」という漠然とした危機感が席巻している。実際、政治、経済をはじめとして、これまで山積していた問題が危機の度合いを一気に高め、先延ばしを許さなくなっている。そして、問題の解決が困難であり、効果的な対応策が見当たらなくなっていることも事実だろう。

ただし、「同じでいられない」派の実感が、どれくらい長続きするかは疑問である。現に東京以西の人々は、ここ数日来、震災や原発事故への注目を弱めつつある。差し迫った恐怖や不安からの逃避が進んでいる。私たちの多くが客観的な「安全」ではなく、主観的な「安心」ばかりを重視してきたことは、これまで何度か指摘してきた。その文脈で言えば、不安が解消されさえすれば、「安全」が実現されなくてもいいということになってしまう。

私がヒステリックで誇張された危機意識の植え付けに批判的なのは、過剰な不安はやがて人々を逃避に誘い、「安全」の実現に向けた動きを一過性のものとしてしまうからである。結果的に、日本システムの変革を望まず、「元の木阿弥」を願うマスコミや産業界の希望に添うことにもなろう。そうしたことが、早くも現実のものとなりつつある。

不安の解消は、「慣れ」によっても促進される。事実、私たちは震度4程度の地震では、もはや驚かなくなっている。原発事故も、まだ収束にはほど遠い状況であるにもかかわらず、東京以西の多くの人々は怖がることをやめつつある。口には出さないまでも、どこかで「済んだこと」の範疇に含めてはいないだろうか。

全てはこれからなのだ。復興にしろ、原発問題にしろ、端緒に着いたというだけだ。「正しく怖がる」ことを続けなくてはならないし、「安心」してしまってはならないはずだ。適度に怖がりつつ、不安を感じつつ、それでも日常のささやかな幸福を追求することは不可能ではないのだし、人間は本来そうあるべきではないのか。恐怖や不安を意識の外に追いやらなければ感得できない幸福は、最初から「偽物」だったのではないか。

文化産業においても同様であろう。震災や原発事故の影響がきわめて大きいものであるのは自明であるが、それによって一気に無価値となる程度のものであったのだとしたら、そもそも「偽物」だったのだ。少なくとも、クラシックにはなりえない、底の浅いものだったのである。数十年の風雨に耐える強靱さを、日本の現代文化が持ちえていなかったということになる。本当にそれでいいのか。

日本の先行きに絶望したなら、さっさと海外へ移住すればよかった。海外に生活基盤を移せるならば、そうしたらいい。ただし、大多数の日本人にとって、安住の地は日本にしかない。絶望を口にする人々も、実はよくわかっているはずだ。政治的、経済的な破綻も、震災と原発事故によって一気に促進した側面はあるものの、10~20年後には十分予想される出来事であった。準備不足は否めないが、今あるヒューマンリソースで乗り切るほかない。「出来る」か「出来ない」かではなくて、やるしかないのである。

日常に回帰し、仕事に精を出し、食事をし、買い物をし、恋愛し、育児や家事をこなす。どんな状況下でも、人間はこれらから免れることができないし、その一つ一つに幸福は胚胎されている。確かな幸福は、恐怖や不安によって減殺されず、むしろ強固になる。「苦しいときにこそ笑う」のは、それを確認するためである。

社会制度は、根本的に変更を加える必要がある。日本は変わらねばならない。しかし、私たちの根本は「同じ」であり、「変われないし、変わるべきでもない」。逆に、私たちが変わらないことによって、社会制度の変更を促進するべきではないだろうか。

震災直後、数日間のパニックから醒めて、冷静さを取り戻した瞬間の姿が、本来の自分である。見栄や外聞によって隠されていた正体が姿を見せたのだ。3月末時点の自分を思い返して欲しい。中には怒りや悲観に打ちのめされるだけだった人もいるかもしれないが、かなり多くの人々が、内部からわき上がる博愛心、責任感、行動力を自覚しただろう。それらは震災を機に降って湧いたのではなく、もともとあったものである。

「過ち」や「恥」に対する自省が、近年の日本に欠けていたのではないかということは、先日述べた通りである。しかし、大半の日本人が公共概念を本来的に保持していたことは救いであった。適度な不安や恐怖を忘却せず、保ち続けること、「変わらない」ことによって、困難な状況を乗り越えることが可能になろう。

自分が共同体を構成するメンバーであること、各人がそれなりに重要な役割をになっていることを、震災前の日本人は忘れがちであったかもしれない。自分を棚に上げて他人を責めること、無理な要求を乱発することが、ユーザーフレンドリーを旨とする経済界の方針もあって、各所で頻出していた。ただし、社会の相対的安定にかげりが見えたことが誰の目にも明らかになったことで、クレーマーの居場所は無くなった。クレーマー傾向のある人々も、言っても無駄であることをわきまえるようになったはずだ。「過ち」や「恥」の意識が広く復活しつつある。

これは私たちが変わったのではなく、本来の自分を取り戻したと見るべきである。震災によって必然的に自省を迫られることになった私たちは、他者との関係性の中で幸福を醸成するという本来の在り方を再発見したのである。取り戻した本来の自分を今後も保持すること、「同じ」でいることの延長線上に、逆説的ではあるが社会の変革がありうるかもしれない。

ようするに、「初心忘るるべからず」ってことだな。

〔追記〕フィクションを「つまらない」と感じるというのは、あくまでもストーリーについて言っている。キャラクター形象が売りになっている作品に関しては、必ずしもその限りでない。逆に言うと、キャラクターへ依存することで生き延びる作品は多いはずで、優れた造形を誇れるというのは、それ自体賞賛に値することである。

2011年4月21日 (木)

「善意」の限界

中国で流れているデマの一つに、「東日本大震災は日本が海底核実験を行った結果だ」というものがある。ネット上でも「単なる陰謀論だ」「ありえない」とする意見が多いのは当然として、それでも密かに信じている人々が一定数いる模様だ。

私の知人(日本人)も、中国でこのデマを信じる人に出会って不愉快な思いをしたという。なんでも「偉い学者がそう言っていたから間違いない」という話だったそうだ(誰だそれ?)。中国人の友人はこの話を聞いて即座に否定したところ、「親日派」のレッテルを貼られて往生したとか。

根拠とされているのは、おおよそ次のようなものらしい。なお、1~3は2006年10月11日の新華社の記事(記者:林立平)によるもので、それが今回見直され、ネットの掲示板を介して広まったようだ。

  1. 北朝鮮が核実験を行った根拠とされたのが地震の発生(地震計の振れ)であったこと。
  2. 人口密度の低い福島県は、自衛隊が兵器の実験をするのに適した場所であること。
  3. 2001年以降福島県沖で震度5~6の地震が頻発しており、地震の規模がちょうど数十トン級の核兵器の爆発に相当するとされていたこと。
  4. 数年間にわたって行ってきた核実験が与えた地殻の変動が、今回の大地震を誘発したと考えられること。
  5. 石原都知事が、中国の軍事的脅威に備えて日本も核武装すべきとの持論を述べていたこと。

一つ一つ反駁するのも馬鹿らしいし、目くじらを立てるほどのこともない。「ふ~ん」といった感じで読み飛ばせばいい。そういえば、四川大地震が起こった時に、日本でもそれが地下核実験の影響ではないかと疑う人がいた。自分と直接関係ないと思えば、勝手なことを言う人は出るものだ。事件が「他人事」であるとき、しばしば言葉には「悪意」が混入し、「自業自得」として突き放すことで、自身を安んずる論調が盛んになる。

一方で、日本では「善意」の応酬が続いている。いや、そもそも人間社会に純然たる悪意はむしろ少ない。多くの人々が良かれと思って行動した結果、様々な問題が出来する。

前にも書いたことだが、こと原発に関しては、事故以前から2つの物語が拮抗していた。推進派は「妨害にめげず有用なエネルギーを推進することが国益にかなう」と考え、反対派は「悪辣な政官学産財界の圧力にめげずに原発の危険性を訴え、正義のためのたたかいを進めるべき」と考えてきた。両者とも、必ずしも悪意よりむしろ「善意」に則っていたことを否定すべきでないと思う。

今回の事故を受けて、推進派は「悪」の権化と見なされつつあり、電力会社から学術界への資金の流れなどがすっぱ抜かれているが、それが一面的な見方であることは間違いない。推進派も、反対派とは別の物語における「善」を追求してきたと考えるべきである。事故の背後に、彼らの危機意識の弱さ、甘さ、隙があったことは間違いないが、そのことは彼らの理念自体を「悪」と認定する根拠にはならない。

技術開発には資金が必要で、資金を得て研究を進めることが国益・公益にかなうと信じていたとすれば、原発推進は金銭の流れを含めて「善意」に基づいてなされていたとすることができる。また、一般的には、資金の提供元(パトロン)の思い通りに研究が行われるとは限らず、「裏金」でない限り、資金獲得自体を責めるのは行き過ぎだという気がする(そもそも、研究資金で「私腹を肥やす」ことはできない)。もっとも、原子力工学と電力会社の間は通常より「馴れ合い」の度合いがかなり高かった可能性はあるけれど。

原発推進派に限らず、主観的な「善意」がやっかいなものであることを、もっと認識しておいた方がいい。たとえばマスコミには、「善意」や「良心」を強調したがる傾向が強い。おそらく彼ら自身も多くは「善意」に則って行動している。社会の「巨悪」を告発するというのが彼らの物語であり、加害者側の「良心」を問い、糾弾する。そうした単純な図式が、ここへ来て再び顕著になってきた。

菅首相に「どうして地位にすがりつくのか」と声を荒げた記者がいた。彼にとって、菅直人は単純な保身で動いている俗物ということになっているのだろう。だが、菅氏本人もまた「俺が何とかしなきゃ」という使命感、「善意」に基づいて奮闘している(それがやっかいなのだ)。

反原発運動家が「善意」に突き動かされていることは、誰の目にも明らかだ。しかし、「即時全廃」を強硬に進めようとすることが、将来的な脱原発を考える穏健派との溝を広げている側面があまり意識されていないようだ(交渉の手段として強攻策を採っているだけで、現実的な「落としどころ」が想定されているならいいのだが)。

放射線の恐ろしさを強調しすぎるあまり、福島在住の人々を苦しめる結果になってもいる。かねてから放射線の恐ろしさが強調され、恐怖が一定程度人口に膾炙していたことに加え、事故後の非理性的対応が「正しく恐れる」ことを不可能にした。「安全」より「安心」に寄りかかる国民感情が、いわゆる「放射能差別」を作り出してしまった。

日本人の多くが「善意」に基づいて行動している。それ自体は素晴らしいことだが、科学的で客観的な裏付けのない「善意」は、それだけで有益ではない。「善意」を有益にするための面倒な手続きを端折った「ショートカット」な現状把握は、所詮他人事で聞き流せばよい「悪意」のデマよりも、時としてやっかいなものであることを認識すべきだろう。

やましいことの皆無な、「正義」、「善意」が、別の立場から見たときには「悪」となりうることを、マスコミや反原発運動家はもとより、私たち自身がよくわきまえておく必要がある。それが現代社会における「リテラシー」の本質である。

« 2011年4月10日 - 2011年4月16日 | トップページ | 2011年4月24日 - 2011年4月30日 »