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2011年4月21日 (木)

「善意」の限界

中国で流れているデマの一つに、「東日本大震災は日本が海底核実験を行った結果だ」というものがある。ネット上でも「単なる陰謀論だ」「ありえない」とする意見が多いのは当然として、それでも密かに信じている人々が一定数いる模様だ。

私の知人(日本人)も、中国でこのデマを信じる人に出会って不愉快な思いをしたという。なんでも「偉い学者がそう言っていたから間違いない」という話だったそうだ(誰だそれ?)。中国人の友人はこの話を聞いて即座に否定したところ、「親日派」のレッテルを貼られて往生したとか。

根拠とされているのは、おおよそ次のようなものらしい。なお、1~3は2006年10月11日の新華社の記事(記者:林立平)によるもので、それが今回見直され、ネットの掲示板を介して広まったようだ。

  1. 北朝鮮が核実験を行った根拠とされたのが地震の発生(地震計の振れ)であったこと。
  2. 人口密度の低い福島県は、自衛隊が兵器の実験をするのに適した場所であること。
  3. 2001年以降福島県沖で震度5~6の地震が頻発しており、地震の規模がちょうど数十トン級の核兵器の爆発に相当するとされていたこと。
  4. 数年間にわたって行ってきた核実験が与えた地殻の変動が、今回の大地震を誘発したと考えられること。
  5. 石原都知事が、中国の軍事的脅威に備えて日本も核武装すべきとの持論を述べていたこと。

一つ一つ反駁するのも馬鹿らしいし、目くじらを立てるほどのこともない。「ふ~ん」といった感じで読み飛ばせばいい。そういえば、四川大地震が起こった時に、日本でもそれが地下核実験の影響ではないかと疑う人がいた。自分と直接関係ないと思えば、勝手なことを言う人は出るものだ。事件が「他人事」であるとき、しばしば言葉には「悪意」が混入し、「自業自得」として突き放すことで、自身を安んずる論調が盛んになる。

一方で、日本では「善意」の応酬が続いている。いや、そもそも人間社会に純然たる悪意はむしろ少ない。多くの人々が良かれと思って行動した結果、様々な問題が出来する。

前にも書いたことだが、こと原発に関しては、事故以前から2つの物語が拮抗していた。推進派は「妨害にめげず有用なエネルギーを推進することが国益にかなう」と考え、反対派は「悪辣な政官学産財界の圧力にめげずに原発の危険性を訴え、正義のためのたたかいを進めるべき」と考えてきた。両者とも、必ずしも悪意よりむしろ「善意」に則っていたことを否定すべきでないと思う。

今回の事故を受けて、推進派は「悪」の権化と見なされつつあり、電力会社から学術界への資金の流れなどがすっぱ抜かれているが、それが一面的な見方であることは間違いない。推進派も、反対派とは別の物語における「善」を追求してきたと考えるべきである。事故の背後に、彼らの危機意識の弱さ、甘さ、隙があったことは間違いないが、そのことは彼らの理念自体を「悪」と認定する根拠にはならない。

技術開発には資金が必要で、資金を得て研究を進めることが国益・公益にかなうと信じていたとすれば、原発推進は金銭の流れを含めて「善意」に基づいてなされていたとすることができる。また、一般的には、資金の提供元(パトロン)の思い通りに研究が行われるとは限らず、「裏金」でない限り、資金獲得自体を責めるのは行き過ぎだという気がする(そもそも、研究資金で「私腹を肥やす」ことはできない)。もっとも、原子力工学と電力会社の間は通常より「馴れ合い」の度合いがかなり高かった可能性はあるけれど。

原発推進派に限らず、主観的な「善意」がやっかいなものであることを、もっと認識しておいた方がいい。たとえばマスコミには、「善意」や「良心」を強調したがる傾向が強い。おそらく彼ら自身も多くは「善意」に則って行動している。社会の「巨悪」を告発するというのが彼らの物語であり、加害者側の「良心」を問い、糾弾する。そうした単純な図式が、ここへ来て再び顕著になってきた。

菅首相に「どうして地位にすがりつくのか」と声を荒げた記者がいた。彼にとって、菅直人は単純な保身で動いている俗物ということになっているのだろう。だが、菅氏本人もまた「俺が何とかしなきゃ」という使命感、「善意」に基づいて奮闘している(それがやっかいなのだ)。

反原発運動家が「善意」に突き動かされていることは、誰の目にも明らかだ。しかし、「即時全廃」を強硬に進めようとすることが、将来的な脱原発を考える穏健派との溝を広げている側面があまり意識されていないようだ(交渉の手段として強攻策を採っているだけで、現実的な「落としどころ」が想定されているならいいのだが)。

放射線の恐ろしさを強調しすぎるあまり、福島在住の人々を苦しめる結果になってもいる。かねてから放射線の恐ろしさが強調され、恐怖が一定程度人口に膾炙していたことに加え、事故後の非理性的対応が「正しく恐れる」ことを不可能にした。「安全」より「安心」に寄りかかる国民感情が、いわゆる「放射能差別」を作り出してしまった。

日本人の多くが「善意」に基づいて行動している。それ自体は素晴らしいことだが、科学的で客観的な裏付けのない「善意」は、それだけで有益ではない。「善意」を有益にするための面倒な手続きを端折った「ショートカット」な現状把握は、所詮他人事で聞き流せばよい「悪意」のデマよりも、時としてやっかいなものであることを認識すべきだろう。

やましいことの皆無な、「正義」、「善意」が、別の立場から見たときには「悪」となりうることを、マスコミや反原発運動家はもとより、私たち自身がよくわきまえておく必要がある。それが現代社会における「リテラシー」の本質である。

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