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2011年4月 5日 (火)

知識人の危機対応

日経BPのホームページが過熱気味だ。大前研一氏や田原総一郎氏の原発事故分析がとりわけ熱い。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110404/265766/?ST=business&P=1

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110330/265304/?ST=business&P=1

大前氏は原子力工学の専門家でもあるようだが、仮説を重ねた上で「そうであればつじつまが合う」という論調が続く。事は実際におっしゃる通りなのかもしれないが、逆に「専門家」であるならば、現在何を述べることが生産的なのかについて、もう少し配慮があっていいと思うのだが、どうだろうか。

別に不謹慎だと批判したいわけではない。危機の深刻さを述べることにも意味はある。たとえば、反原発を訴えてこられた広瀬隆氏が強調する現状の危うさには、読む者、聞く者の心を強く打つ要素がある。広瀬氏の無念さが言葉に宿り、視聴者を惹きつけるのだ。一方、こと今回の原発事故分析に限っては、大前氏の言葉が私の魂に語りかける様子はない。専門的知識を十分にお持ちなのだろうが、言葉は悪いけれど素人めいて感じられるのである。

「炉心の融点は圧力容器より高いのだから、圧力容器の底に穴が開いているのは間違いなく、格納容器の底もいためている可能性が高い(要約)」というところは、なるほどと思わせるが、それ以外はマスコミの報道を注意深く見てきた者にとって、必ずしも目新しい情報ではない。

圧力容器の底云々に関しても、福島第一が圧力容器の底部から制御棒を挿入する構造であり、そのための脆さがあったことがすでに報じられている。「臨界の危険性が少なくなるにつれ、今後の対策は冷却と汚染のバランスに移ってくることを示唆している」とおっしゃるが、そんなことは大前氏のこの記事が発表される前に、多くの一般人が共有している情報である。

しかし、私が失礼を承知で「素人めいて感じられる」と申し上げたのは、新しい情報が少ないからではない。大前氏の記事が誰に向けて、何を伝えたかったのか、今ひとつ分からないためだ。おそらく氏の想定する読者の中に私は入っていなかったと見え、記事から有用なメッセージを読み取ることができなかった。私だけならいいが、他の読者は何を読み取ったろうか。

ネット上を徘徊しつつ、偶然氏の文章に出会った私のような人間にとって、「専門家」である氏の言葉は、砂漠の水のような存在である。だが、追いかけれど水は遠ざかる。気ままに知識を披露するばかりで、氏の言葉は私に向けて発せられていなかった。そう感じたのがもし私だけでなかったとしたら、大前氏は読者に向けて語っておられないのではないかという危惧が生ずる。文筆を生業とする方が、仮に読者を想定しきれていないとすれば、もはやプロとは呼べまい。以上はあくまでも仮定ではあるが、「素人めいて」と申し上げたのは、そういうことである。

田原総一朗氏は、海外の報道と比較して、日本のメディアが政府の「公式発表」に寄りかかりすぎていると批判する。「日本人には大本営発表モードが骨身に沁みているのではないか」というのである。

「事実を正確に素早く報道してほしい」というのは、多くの国民が感じていることではあろう。だが、「事実」をどうやって知るべきなのか。田原氏は「独自の取材」を挙げるが、そのことは氏が誰か「事実」を正確に把握している者がいるという前提に立っておられることを意味する。

気象庁が予測データを公表しなかった件が明らかになったばかりだが、「予測」は「事実」と同列に論じられまい。逆に、両者が混同されたときの影響の大きさを斟酌した気象庁側の考えも、一定程度理解できるように思う。以前にも指摘したことだが、「事実」の全容は誰も把握し切れていないと考えるべきではないのか。東電も日本政府も外国政府も、原子炉建屋の中の状況を正確に掴み切れていないからこそ、これだけ慌てているのだし、対応が後手に回るのではないか。

誰かが知っていて、それを隠しているとした方が、不安はずっと軽減される。誰にもわからない状況が続くことほど不安なものはない。東電が、事故の最初期段階で隠蔽側に舵を切りかけたことは十分考えられるとしても、現状は違う。東電どころか、どんな「偉い」人々にも実情はおそらく把握できていない。だから、誰もが仮説に仮説を重ねて現状把握につとめるしかなく、仮説を並べられても、確かなことを知りたいという欲求は満たされることがない。

情報は限られている。情報の圧倒的不足こそが危機の本質なのだ。外国メディアの論調と引き比べ、日本のマスコミ報道を詰る論調は溢れているが、海外メディアの多くも日本メディアと同等レベルの情報しか持ってはいない。最大の違いは報道の内容自体というよりは、報道の仕方(口調、表現方法、扇情的か抑制的か)である。

もちろん、海外では「独自取材」に基づき、補足的情報の総量は豊富であるかもしれない。だが、補足情報が私たちの不安の軽減に直結することは希であろう。

現状においては、不安の緩和が日本のマスコミの任務であることは間違いない。ただし、事態の深刻さを報道するのも重要な任務であり、少なくとも明らかになったデータを「正確に」伝えることから逃げられない。抑制的に危機を危機として伝えるという矛盾に、日本のマスコミは引き裂かれているように見える。「マス」である限りにおいて、現状で旗幟を鮮明にすることは許されないのだ。引き裂かれた状況下で、マスコミ人自身が不安と格闘するという状況が続いている。

私たちは、「ある日突然ドラえもんを失ったのび太」のように、途方にくれている。今、私たちに必要なのは、おそらく確かなメッセージなのだと思う。誰もどうしたらいいか分からない中で、魂にがつんと来るメッセージが、経験豊富な知識人から発せられるのを私たちは待望している。「こうしろ」「ああしろ」とは誰も言えないだけに、抽象的で難解であっても、含蓄に富んだ言葉の価値が増しているはずなのだ。

哲学的、文学的、宗教的な言葉が、もっと語られてもいい。経験に基づいた人生論が発せられてもいい。こうしたことを率先して行うべき人々が、自らの不安から浮き足立っているように感じられるのは私だけだろうか。

大前氏と田原氏を知識人の代表としてとり上げたのには異論があるかもしれない。お2人とも、どちらかと言えば狭義の哲学や文学や宗教とは縁遠いタイプの知識人である。しかし、むしろリアリズムの世界に生きる人々が危機に際して語る人生論が有益である場合も多い。だが、彼らが発する言葉にはそれが感じられない。私の読解力の問題かもしれないが、単に仮説を披露し、現状を非難することに主眼がおかれているように読める。

お2人は活発に発言しているだけいい。多くの人文系知識人は、何をしているのだろう。多くの国民がかつてない不安に苛まれている時に沈黙しているとしたら、役割の放棄に近い。個人ブログ等で意見を述べている方々は多いと思われるが、悲しいかな、彼らの声が大きな響きをともなって聞こえてはこない。

強いメッセージの発信は、政治のリーダーにのみ求めるべきではない。国民の不安に乗じて台頭するカリスマ的政治家が危険な存在であろうことは、誰にでも想像がつくだろう。読者の魂をゆさぶり、生きる道を指し示す言葉、強いメッセージを提示するのは、長く「余計者」に甘んじてきた知識人の責務であるはずだ。

〔追記〕広瀬隆氏の言葉が「心を強く打つ」と書いたが、必ずしも氏のスタンスに賛同するものではない。「3・11に寄せて」(3月30日記事)で述べたとおり、反原発運動をされてきた方々の発言は、私たちの不安を代弁している側面はあるが、彼らの主張が「正しい」かどうかとは別問題である。広瀬氏の発言に込められたメッセージ性は評価に値し、多くの論者の言葉にそれが希薄なことを惜しむものの、現状においてはプラスよりマイナスの意味が勝っているという印象が強い。「心を打つ」というのは、非理性的な影響力を持つということであり、危険でもある。

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