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2011年4月 8日 (金)

「へうげもの」とか、赤木智弘とか

今日はこっちに逃げてる。『へうげもの』12巻と『もやしもん』10巻。

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古田織部も老けてきたなぁ、なんて思いつつ、山田芳裕氏のセンスはやっぱりすごいなと。今回の「瓜畑あそび」シーン、その終盤で流れるバックミュージック(笑)!!

史実はおいといて、本作の織部は武人としてはダメ人間なのだけど、「数寄」の道を突き進むことで「武」や「政」と渡り合う。「美」や「芸」の巨匠が政財界に食い込むというのは、古今東西よくあることだが、多くは共依存関係を形成しているに過ぎない。「美・芸」と「政・財」の間にはいかんともしがたい溝があって、溝をはさんで両者が利用し合う構図はあるにせよ、越境は簡単じゃない。

前にも触れたように、中国ではかつて、文人が政治家を兼ねるというか、文人としての能力がそのまま政治家としての評価と重なる場合があった。隋代から20世紀初頭まで続いた科挙の伝統がそれを裏打ちしていたわけだ。中国知識人の責任感なども、そこに由来する部分はあると思う。一方で、「文」と「武」の棲み分けは比較的明確であって、「文」が相対的上位に置かれることが多かった。

日本の安土桃山期は、とりわけ「武」が「美」と結びついた時代であって、武人が文化の主要な創造者であるという希有な状況が生まれていた。江戸期になると状況が変わって、やがて「武」に内実が伴わなくなることが多くなるけれど(当然例外はたくさんあるよ)、日本「武士道」の精神性の基礎はすでに固まりつつあったってことなんだろう。

なんだかすごい雑ぱくなまとめ方をしてしまったけど、「日本的文化風土」っていうのがかなり特殊であるっていうのがよく言われることで、そのあたりのことがうまくデフォルメされて、『へうげもの』にはよく表現されていると思うわけだ。

たとえばかつて「政治と文学」なんてことが問題になったのも、文学に政治性が希薄だっていう前提があったからだし、必要以上に社会と直接的関係を持たないことが「文化」の本道だっていう美意識は、今でも多少は残っていると思う。

つまり、マニアックであることが素晴らしいとされてきたわけだ。知識人が分をわきまえて、「余計者」に甘んじる理由の一端もここにあって、「美」の追求において、社会的意義だとか効用だとかを意識することは邪道ってことにされる。そのこと自体の善し悪しはおいといて、『へうげもの』にはマニアックであることそのものの内にある「社会性」、「意義」を言祝ぐようなところがある。それが大変タイムリーでもあり、すごいところだ。

話は変わって、赤木智弘氏の下記記事がおもしろかった。

http://news.livedoor.com/article/detail/5473588/

4年くらい前に「希望は、戦争」を書いて物議を醸したのはことに有名。私の周囲でも随分話題になったが、それを話題にした人たちが赤木氏の発言をちゃんとフォローしている形跡はなさそうだった。私はそれを残念に思う一人だ。

世代論を強調しすぎることを除けば、赤木氏があちこちで言ってきたことはかなり説得的だし、私なんかはほぼ全面的に賛同できてしまうのだ。それに、「希望は、戦争」にしたところが、これに噛み付いた人たちの多くは、赤木氏が不満に思っている枠組みに寄りかかって赤木批判をしていたわけで、むしろ批判者の頭の固さを露呈してしまっていた。まぁ、そのへんのことは、長くなるから今はやめておこう。

今回の記事の中心は、次の一文だろう。

「最近は「安全安心」として、言葉がひと括りにされることが多いが、本当はこの2つは別の言葉である。安全は客観的に証明されるのに対し、安心は主観的な認識である。」

文中で挙げられた事例については、正反対の例もあった可能性があり、検証が必要だ。それはそうとして、「安全第一、安心は二番」であるべきだというのはその通り。これが理解できていないと、被害の予防のみならず、二次的三次的な災害を招く可能性がある。

それなのに、一般的にはむしろ優先順位が逆転しているんじゃないかという気がする。私たちは「安心」を欲するあまり、「安全」を蔑ろにすることがある。それは両者を同一視しているためでもあろうけれど、むしろ「安全」に対するこだわりは、よく言われるほど強くなかったのではないかと思うのだ。「安全」は政府・自治体・企業が責任を持ちさえすればよく、生活者は「安心」の享受につとめさえすればよいと、無意識にそう思ってはこなかったか。

実現すべきは「安全」なのだけれど、私たちが求めるのはひとえに「安心」だ。「安心」を追い求める際に、「安全」はしばしば等閑視される。もちろん、本来は「安全」であってはじめて「安心」が生じるはずなのだが。政府批判が加熱する背景にも、時折このボタンの掛け違いがある。正当な批判も当然あるし、批判を罪悪だと言うつもりは毛頭ないが、「市民目線」という言葉の裏に「安心」原理主義が隠されている場合もあるんじゃないか。

震災後、いろいろ取りざたされている混乱も、多くはこの優先順位の転倒によって引き起こされているように思う。様々な不信も、不安も、「安心」が得られずにいることによる反射である場合が多い。しかし、目下必要なのは「安全」の確保であり、政府がまず取り組むべきも「安全」を回復することである。一次被害を免れた者がやたらに「安心」をねだるのは、時期尚早とするべきだろう。

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