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2011年4月23日 (土)

「同じ」でいること

3・11から最近までに、2つの現状認識が出てきている。1つは「私たちは以前と同じではいられない」というもの。もう1つは「私たちは変われないし、変わるべきでもない」というものだ。

当然、この両極の間には無数の立場がありうるし、そもそも今の時点でどちらが正確かを言うのは、時期尚早というものだろう。ただし、両者とも理屈ではなくて実感から出てきた認識であり、現状をどう認識するかによって、今後の動きも変わってくるはずである。

たとえば、文化批評について。小説や漫画やアニメや映画等々、多くの作品が震災後に魅力を減じる結果になった。退屈で平凡な現実世界を前提として、日常に刺激(ハラハラやドキドキ)を与えることに主眼がおかれた作品は、「つまらなく」感じられる。それは、現実の重さに比して「所詮作り物」だということもあろうが、先月以来さんざん「ハラハラ、ドキドキ」してきた私たちが、刺激に疲れていることとも関係がある。

フィクションを「陳腐」に感じてしまうこと、これまで嫌気すら感じていた相対的安定が、逆に貴重なものに感じられること、生命をもてあそぶような表現が不謹慎に思われること。これらは私たちの皮膚感覚が確かに告げていることだ。

また、恋や愛を語ること、お気軽でお洒落で可愛らしいラブストーリーにウキウキすることの軽薄さに、多くの人が気づいてしまった。生暖かく心地よい夢から醒めて、「俺、何やってたんだろう」というような自己嫌悪を感じている。

今後の生活への不安もある。「日本やばいんじゃないか」という漠然とした危機感が席巻している。実際、政治、経済をはじめとして、これまで山積していた問題が危機の度合いを一気に高め、先延ばしを許さなくなっている。そして、問題の解決が困難であり、効果的な対応策が見当たらなくなっていることも事実だろう。

ただし、「同じでいられない」派の実感が、どれくらい長続きするかは疑問である。現に東京以西の人々は、ここ数日来、震災や原発事故への注目を弱めつつある。差し迫った恐怖や不安からの逃避が進んでいる。私たちの多くが客観的な「安全」ではなく、主観的な「安心」ばかりを重視してきたことは、これまで何度か指摘してきた。その文脈で言えば、不安が解消されさえすれば、「安全」が実現されなくてもいいということになってしまう。

私がヒステリックで誇張された危機意識の植え付けに批判的なのは、過剰な不安はやがて人々を逃避に誘い、「安全」の実現に向けた動きを一過性のものとしてしまうからである。結果的に、日本システムの変革を望まず、「元の木阿弥」を願うマスコミや産業界の希望に添うことにもなろう。そうしたことが、早くも現実のものとなりつつある。

不安の解消は、「慣れ」によっても促進される。事実、私たちは震度4程度の地震では、もはや驚かなくなっている。原発事故も、まだ収束にはほど遠い状況であるにもかかわらず、東京以西の多くの人々は怖がることをやめつつある。口には出さないまでも、どこかで「済んだこと」の範疇に含めてはいないだろうか。

全てはこれからなのだ。復興にしろ、原発問題にしろ、端緒に着いたというだけだ。「正しく怖がる」ことを続けなくてはならないし、「安心」してしまってはならないはずだ。適度に怖がりつつ、不安を感じつつ、それでも日常のささやかな幸福を追求することは不可能ではないのだし、人間は本来そうあるべきではないのか。恐怖や不安を意識の外に追いやらなければ感得できない幸福は、最初から「偽物」だったのではないか。

文化産業においても同様であろう。震災や原発事故の影響がきわめて大きいものであるのは自明であるが、それによって一気に無価値となる程度のものであったのだとしたら、そもそも「偽物」だったのだ。少なくとも、クラシックにはなりえない、底の浅いものだったのである。数十年の風雨に耐える強靱さを、日本の現代文化が持ちえていなかったということになる。本当にそれでいいのか。

日本の先行きに絶望したなら、さっさと海外へ移住すればよかった。海外に生活基盤を移せるならば、そうしたらいい。ただし、大多数の日本人にとって、安住の地は日本にしかない。絶望を口にする人々も、実はよくわかっているはずだ。政治的、経済的な破綻も、震災と原発事故によって一気に促進した側面はあるものの、10~20年後には十分予想される出来事であった。準備不足は否めないが、今あるヒューマンリソースで乗り切るほかない。「出来る」か「出来ない」かではなくて、やるしかないのである。

日常に回帰し、仕事に精を出し、食事をし、買い物をし、恋愛し、育児や家事をこなす。どんな状況下でも、人間はこれらから免れることができないし、その一つ一つに幸福は胚胎されている。確かな幸福は、恐怖や不安によって減殺されず、むしろ強固になる。「苦しいときにこそ笑う」のは、それを確認するためである。

社会制度は、根本的に変更を加える必要がある。日本は変わらねばならない。しかし、私たちの根本は「同じ」であり、「変われないし、変わるべきでもない」。逆に、私たちが変わらないことによって、社会制度の変更を促進するべきではないだろうか。

震災直後、数日間のパニックから醒めて、冷静さを取り戻した瞬間の姿が、本来の自分である。見栄や外聞によって隠されていた正体が姿を見せたのだ。3月末時点の自分を思い返して欲しい。中には怒りや悲観に打ちのめされるだけだった人もいるかもしれないが、かなり多くの人々が、内部からわき上がる博愛心、責任感、行動力を自覚しただろう。それらは震災を機に降って湧いたのではなく、もともとあったものである。

「過ち」や「恥」に対する自省が、近年の日本に欠けていたのではないかということは、先日述べた通りである。しかし、大半の日本人が公共概念を本来的に保持していたことは救いであった。適度な不安や恐怖を忘却せず、保ち続けること、「変わらない」ことによって、困難な状況を乗り越えることが可能になろう。

自分が共同体を構成するメンバーであること、各人がそれなりに重要な役割をになっていることを、震災前の日本人は忘れがちであったかもしれない。自分を棚に上げて他人を責めること、無理な要求を乱発することが、ユーザーフレンドリーを旨とする経済界の方針もあって、各所で頻出していた。ただし、社会の相対的安定にかげりが見えたことが誰の目にも明らかになったことで、クレーマーの居場所は無くなった。クレーマー傾向のある人々も、言っても無駄であることをわきまえるようになったはずだ。「過ち」や「恥」の意識が広く復活しつつある。

これは私たちが変わったのではなく、本来の自分を取り戻したと見るべきである。震災によって必然的に自省を迫られることになった私たちは、他者との関係性の中で幸福を醸成するという本来の在り方を再発見したのである。取り戻した本来の自分を今後も保持すること、「同じ」でいることの延長線上に、逆説的ではあるが社会の変革がありうるかもしれない。

ようするに、「初心忘るるべからず」ってことだな。

〔追記〕フィクションを「つまらない」と感じるというのは、あくまでもストーリーについて言っている。キャラクター形象が売りになっている作品に関しては、必ずしもその限りでない。逆に言うと、キャラクターへ依存することで生き延びる作品は多いはずで、優れた造形を誇れるというのは、それ自体賞賛に値することである。

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