« 「へうげもの」とか、赤木智弘とか | トップページ | 中国の放射線量とか »

2011年4月 8日 (金)

もしかして、思考停止?

とても残念だ。何がって、戦後民主主義者や中道左派と呼ばれる人々に、「思考の停止」と思しきムードが広まっていること。たとえば、鈴木耕氏の記事がそうだ。

http://news.livedoor.com/article/detail/5471025/?p=1

私は「9条の会」などの意義を認めてきた一人である。非原理主義的コミュニストの発言には概ね同意できたし、運動としての反戦・反核が結果的に担う役割を高く買ってもいた。そして、保守よりは反保守の人々に対して親近感を抱くことの方が多かった。

あくまでも発言内容でその都度賛否を判断したため、「危なっかしい奴」(逍遙派)と思われることも多かったと思う。つまり、「左」だから信用するとか、「右」だから批判すべきだとかいう議論は非生産的だと感じていた。それでも、自分の生活感覚が彼らの現状認識と近い場合が多かった。しばしば「確かにその通りだ」と納得できたのだ。

でも、震災後の論調はいただけない。あまりにお粗末だと言いたくなる。今次の災害はあまりに大きく、ショックなのは私とて同じだ。原発が「人災」だという主張もわかる。だが、この子供じみた「いじけ」様はなんだろう。

「「東京電力や原発を進めてきた政治家たち」に、非常時を言い訳に責任論を回避させてはいけない。きちんと、正当な怒りをぶつけなければならない。そうでなければ、戦争責任をうやむやにして、戦争犯罪人が逃げ延びたような歴史がまた繰り返される。」

これはまだわかる。怒りの表出を先延ばしするうちに、責任追及が換骨奪胎されてしまう危険性を言っているのだろう。だが、著者の言う「正当な怒り」の内実はどのようなものだろう。引用されている西田敏行氏の言葉と、著者の基調は完全には一致していないように思えるのだ。著者の本音は、実は次の引用部に集約されるのではないか。

「僕はいま何もいらない。ただ、「いつもと同じ春」がほしい…。」

こんなことを言ってはだめだろう。日本の平和運動を支えてきた精神が、もしもこんな駄々っ子みたいなものに過ぎないのだとしたら、あまりに脆弱じゃないか。

「影響力を持つ芸能人は、もっとはっきりしたメッセージを、自らの言葉で発信するべきではないのか。」

「大人である芸能人たちが、なぜ自らの意見を主張せず、「きみはひとりじゃない」だの「日本は強い国」だのと言うだけなのか。」

著者は「メッセージ」や「意見」を、「反原発」だけに限定してしまっている。「反原発」以外のメッセージを認めない。そして、(ACのコマーシャルの出来はさておいて)「きみはひとりじゃない」「日本は強い国」といった言葉に一定の力があることを理解しない。

反原発運動が、これまで大きな影響力を持てずにいたこと、その背景に、政府や電力会社や関係学会による危険性の隠蔽があったことは確かだろう。また、今後運動が盛り上がりを見せ、短期的には新規建設の撤回、中期的には代替エネルギーの検討、長期的には全原発の停止が目指される可能性がある。その途上で、産学政の責任を追及することも必要だろう。

それならば、現状を見据えつつ長期的な運動計画を立てるべきである。そして、本気で脱原発を推進するなら、過度に理想的・空想的な主張を廃して、本当に実現するために必要なことを考えねばなるまい。優先順位を考え、辛抱強く世論を形成し、時には清濁併せ持つ手段が必要とされるだろう。

記事中に、有志作成の「御用学者」リストがリンクされているが、その認定には臆断に基づくものもある(メディアで「安全」を主張したことや、財界との癒着が疑われる所属先によるらしい)。彼らに後ろ暗い過去があるならば猛省が必要だが、今「御用学者」をリストアップして槍玉に挙げることに、どんな意味があるのだろうか。一方で、反原発論者を十把一絡げに称揚することで、何が得られるのだろうか。

一番の問題は、自分はイノセントだという認定を、著者が無意識に採用していることだ。反原発運動の経験を自身の免罪符にしてしまえば、運動未経験者との溝をつくることになろう。原発問題に後ろ暗いことのない者も、あるいは間接的に荷担していたかもしれない可能性を考えねば、運動は広まらず、深まるまい。

『週刊ポスト』(4月15日号)に「放射能差別」の実例がとり上げられている。そこでは、反原発運動家の発言が、差別を助長する構図が指摘されている。その点に限っては、彼らはすでにイノセントでない(もちろん、事故が起きなければイノセントでいられたのかもしれないが)。つまり、「正しいこと」にも弊害はあり、その責任を引き受ける覚悟無しに、今後の運動があり得ないことを示唆している。

この局面において、最も恐ろしいのは思考の停止である。停止した思考は、知らず知らずのうちに、二次被害三次被害を助長してしまう。また、停止から復帰したとしても、これまでの延長線上で考察を進めるのでは不十分だ。考え方の枠組みを日々更新する構えが求められる。

« 「へうげもの」とか、赤木智弘とか | トップページ | 中国の放射線量とか »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/573661/51337059

この記事へのトラックバック一覧です: もしかして、思考停止?:

« 「へうげもの」とか、赤木智弘とか | トップページ | 中国の放射線量とか »