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2011年4月10日 (日)

内田樹氏の立ち位置など

最初から断っておくが、批判ではない。むしろ(若干不本意ではあるのだが)、内田氏のスタンスについての全面肯定を意図している。「不本意」だというのは、私は内田氏よりずっと年少ではあるけれど、同業者としてのふがいなさに起因するものだ。この業界で、別の誰かを全面肯定することは、自分の存在意義の縮小(場合によっては全否定)を意味するから。

内田氏のブログ「内田樹の研究室」をご存じの方は多いだろう。氏の著書の一部が、ブログ記事を加筆編集したものであることは知られている。前にも書いたが、昨年一年間、それらを含む「内田本」をほとんど読んでしまったので、新刊が待ち遠しくて私もそちらをフォローするようになった。

http://blog.tatsuru.com/

震災後、早い段階で「疎開」を提唱した際には、いささかの引っかかりが残った。必ずしも「上から目線」というのではないが、市井(街場)に根を下ろした一生活者というよりは、雲に乗った仙人だとか、深山幽谷に座した修行者とか、いずれにしろ浮き世を離れた「この世ならぬ」立場からの発言に思えたためだ。被災状況を強く憂慮していることは十分に伝わるものの、なんだかピントがずれているように感じてしまった。

だが、それこそが内田氏のスタンスであった。これまでも、一見したところ非現実的で、突拍子もない提案をしばしばしてきたのだ。「疎開」記事に違和感を感じた時、私はそのことを忘れていた。というか、混乱のただ中で冷静さを失っていたというべきだろう。

一見、非現実的と見える提案が、実は有効である場合は、実際少なくない。それは、思考の次元をひとつ引き上げる役割を果たす。提案そのものの即効性が期待されるというよりは、行き詰まった議論に風穴をあけることによって、より有意義な枠組みの構築に寄与するわけだ。

そのことを、ここ数日の記事を読みながら思い出した。そこでは「原発供養」や「うめきた大仏」について語り、日本人の原発への向かい方や、戦後の都市構想について、宗教的・霊的な構えが欠如していることが指摘されている。

表面的に見れば「突拍子もない」話である。だが、ここには冷徹な理性と激しい感情の間の溝を橋渡しする意図がみられよう。

内田氏の語る「霊」は、非科学的なものではなく、迷信を称揚するわけでもない。ポイントは「霊」が存在するか否かではなく、逆に「存在しないもの」を祀り、思いをはせてきた人間の在り様にこそある。そして、「死者」や「恐るべきもの」に対して、それらを無視するのではなく、「確かにあるかのように」扱ってきた姿こそが自然であるとするのだ。

「霊」あるいは「神」といったものを、「存在しない」から無視する、あるいは軽視するのは、思い上がりに直結する。恐れ、祀り、鎮魂するという態度なしに人は人たりえない。そして、しばしば怠慢、慢心、さらには「隙」が生じる。

この「隙」こそが、多くの問題の発生に関与していそうだという連想は、誰にも可能ではないだろうか。このあたりのこと(他にもいろいろ)が、「内田本」にはちりばめられている。お勧めはいろいろあるのだが、時宜にかなっているのはこれだろうか。

P1000272

『邪悪なものの鎮め方』、バジリコ、2010年1月、1600円+税。

もうちょっと言わせてもらうと、「霊」や「宗教」に限らず、思考の次元をひとつ引き上げる(固定観念から離れる、内田氏の言葉だと「自分の考えをカッコに入れてみる」)ことの必要性が、今後さらに増すのではないかという気がしている。

もちろん、自分や家族の短期的生存が危ぶまれる状況では難しいだろう。「衣食足りて・・・」ではないが、とてもじゃないが落ち着いていられない、クールダウンなど不可能な状態におかれた人々が大勢いる。その方たちの優先順位は、悲しいけれど私たちとは異なってしまっている。今言っているのは、当面の相対的安全が確保できている人々に限定した話である。

昨日も「冷静」になること、感情に酔わないことの必要性を述べた(抽象的に過ぎた印象はあるけども)。そして、二者択一、AかBかといった選択をなるべく回避することをお勧めした。この2つは関連していて、「冷静」でなければ「二者択一」以外の方法を思いつきづらい。これを主として反原発の運動論として提示してみたのだが、賛同が得られたか微妙なところだ。

私は「反原発」ということを、実は話の前提としているわけではない。逆に、原発の必要性にこだわりたいわけでもない。ただし、今次の事故を経て、反原発の動きが盛り上がることは想像に難くないし、私もそれに参加することはやぶさかでないと思っている。

「反対」と「推進」の理論が噛み合わないのは周知の通りであろう。これまで「推進」が権力側におり、「反対」の力が大きなうねりとなることが難しかった。そうした中で身内を固め、両派に属す人々にはそれぞれ旗幟鮮明にすることが求められただろう。議論の相手が「反対」か「推進」かを見極めた上で対話が持たれ、それがしばしば決裂したことは何度も耳にしている。

しかし、今後の方向性としては、心情的に(あるいは身体感覚として)「反対」の立場に立つ人々が激増することが予想される。だが、「相対的安全」を享受する人々の内、「反対」ではあるけれど原発を「必要悪」として一部容認する構えを持つ者が多数を占める可能性は大きい。そして、それが政・官・産・学によって「だまされている」からとするのは一面的である。すでに稼働してしまった原発をどうするのか、その処理が困難を伴うこともまた事実なのだから。

「絶対反対、即時廃止」を願う人から、「将来的にできれば廃止」を現実的とする人までを、ゆるやかに統合する必要を考えたい。そうしなければ、運動は中途で瓦解する。また、同時進行で、「安全」性の徹底的総点検を実現させる(ここでは、良心的な「推進」派とも共同できる)。そのための持って行き方が非常に重要だと思うのである。

絶対にやってならないことは、非理性的に恐怖を根付かせ、怒りの矛先を向けるべき対象を誤ることである。「反対」と「推進」の対峙した構図から、ひとつ次元を上げて議論の場を形成する必要がある。

自分の考えを一旦「カッコに入れる」ことが重要だ。

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